八木原村(読み)やきはらむら

日本歴史地名大系 「八木原村」の解説

八木原村
やきはらむら

[現在地名]西彼町八木原郷やきはらごう

大串おおくし村の北に位置し、東部は内海に面する。風高かぜのたか峰の北東に七浦ななうら池がある。刎木はねきに中世の遺構を残す刎木城跡がある。志田三郎を祀る祠の基壇より五輪塔二六基分・宝篋印塔一一基分が出土、いずれも基礎部分のみで、康正四年(一四五八、長禄二年)・応仁三年(一四六九)の紀年銘をもつものを含む。また一五世紀前半から半ば頃の造立と推定される五輪塔地輪の前面中央に「海夫 道浦」と陰刻されており、道浦なる海夫が五輪塔を建塔しうる財力をもっていたこと、南の平山ひらやま郷での石鍋の採掘遺跡をはじめ畿内・鎌倉などへも運ばれた西彼杵半島産の石鍋の産地が多いことなどから、廻船を生業の一つとしていたことが想定される。外海そとめ越にある合戦場かつせんばは、当地を拠点とした八木原氏が中浦氏と戦い、それを討取った古戦場跡という。


八木原村
やぎはらむら

[現在地名]渋川市八木原

有馬ありま村の東に位置し、北は茂沢もざわ川を境になか村。佐渡奉行街道が南北に通る。元和五年(一六一九)安藤対馬守殿御領分高覚帳(東大史料編纂所蔵)上郷に村名がみえ、高崎藩領。高六九三石余、田方四九町九反余・畑方二八町余。元禄郷帳では前橋藩領。佐渡奉行街道は三国街道の旧道で、中山道を本庄ほんじよう(現埼玉県本庄市)で分れ、たま(現佐波郡玉村町)総社そうじや(現前橋市)大久保おおくぼ(現北群馬郡吉岡村)、八木原から渋川へと継いだが、のちに高崎、金古かねこ(現群馬郡群馬町)、渋川の道筋が主流となった。


八木原村
やぎはらむら

[現在地名]黒保根村八木原

水沼みずぬま村の南東、渡良瀬川左岸に位置する。寛文郷帳によれば高六一石余(畑方のみ)、館林藩領。天和二年(一六八二)の分郷配当帳では九七石余で旗本岡部領。江戸後期の御改革組合村高帳でも岡部領で、家数三九。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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