赤城神社(読み)あかぎじんじや

日本歴史地名大系 「赤城神社」の解説

赤城神社
あかぎじんじや

[現在地名]宮城村三夜沢

あら山の南麓に位置する。山を背にした広い境内に白木の大鳥居、拝殿、中門、本殿が並び、左手に神楽殿、神庫が建つ。祭神は赤城神・大己貴命・豊城入彦命。旧県社。赤城山南麓一帯に数多くの分社赤城神社があるため三夜沢みよさわ赤城神社と称する。

赤城神の史料上の初見は「続日本後紀」承和六年(八三九)六月甲申条で、「奉上野国无位抜鋒神、赤城神、伊賀保神並従五位下」とある。この後「三代実録」貞観九年(八六七)六月二〇日条、同一一年一二月二五日条、同一六年三月一四日条、元慶四年(八八〇)五月二五日条にみえるがいずれも神位昇叙の記事で、元慶四年には従四位上になっている。なおこのときの神名の表記は赤城沼神あるいは赤城石神と沼と石の字がついている。「延喜式」神名帳には勢多郡では赤城神社のみ載り名神大社貫前ぬきさき神社(現富岡市)伊加保いかほ神社(現北群馬郡伊香保町)と並んで名神祭二八五座に含まれ班幣にあずかった(同書臨時祭)。長元三年(一〇三〇)の「交替実録帳」には正一位赤城明神社とみえ、「御玉殿一宇 御美豆垣一廻 玉垣一廻 御向殿一宇 御帛殿一宇 大門一宇 鳥居一本 荒垣一前東西 舘屋一宇 従屋一宇 厨屋一宇」「件社、七年一度有造作之例、当任去万寿四年相当大修造之年、仍皆新所修造也」とある。この記事によって万寿四年(一〇二七)頃の神社の建造物の種類と配置がほぼ推定できる。また七年ごとに国司による修造は朝廷から特別な扱いを受けていたこと、万寿四年が大修造の年であったこと、神位が正一位になっていることなどがわかる。

六国史等に名が出る赤城神、赤城神社を祀った氏族は当時の上野国を代表する豪族上毛野氏一族と推定されている。その居所は勢多郡衙の地と推定される現粕川かすかわ月田つきだ御門みかどの地を含み、現前橋市西大室の前二子にしおおむろのまえふたご古墳など大前方後円墳の連なる赤城山南麓の地があてられる。その地から仰ぐ赤城山の豪壮な山容、高岳に伴う各種の自然現象、とくに雷雨の根源地としての山、山頂の大沼おの小沼このの神秘感などが赤城神として信仰の対象となったのであろう。しかし当初の社の所在地、万寿四年の建物の並ぶ社地を現在の三夜沢の地とすることには問題が残る。宇通うつう遺跡(粕川村)二之宮にのみや赤城神社の鎮座地(前橋市)なども検討しなければならない。なお明治初年頃書かれたと思われる社誌に「分社同郡月田村ニ在、近戸明神ト云、元宮地鎮座ノ時ハ旅宮行幸ノ神輿休供御ノ社ト云伝」とあり、この伝承は粕川村月田の近戸ちかと神社にもあり、「元三夜沢」と二之宮との間の神幸式の中間の休憩所としている。


赤城神社
あかぎじんじや

[現在地名]北橘村八崎 大宮

八崎はつさきの南部、双玄そうげん寺の北西にある。祭神豊城入彦尊。旧村社。社前の霊時建国基碑(明治二七年建立)によると、天慶の乱の時平貞盛が詣でて戦勝を祈願。その後戦国期に戦火にかかり焼失したが、永正六年(一五〇九)再建、天正年間(一五七三―九二)八崎城主長尾憲景が改修、あつく尊崇したと伝えるが証するものはない。正徳三年(一七一三)の寺社書上帳(八崎区有文書)に「赤城山大明神 別当天徳寺 持分五郎右衛門 村中総鎮守」、寛延三年(一七五〇)の寺社書上帳(同文書)には「持伴助 別当天徳寺」とあり、特定の家に深いかかわりをもつ神社であったようである。


赤城神社
あかぎじんじや

[現在地名]館林市足次

足次あしつぎ集落の北西に位置し、祭神は大己貴命・豊城入彦命など。旧郷社。社伝では建仁二年(一二〇二)新田義重勢多せた三夜沢みよさわ(現宮城村)の赤城本宮を勧請、数日後男子義松が誕生したので、子の幸福を祈って新たに社殿を造営し、新田家代々の守護神としたという。現栃木県足利あしかが上渋垂かみしぼたれ町赤城神社にも同様の伝承が残る。同社では上野・下野両国のうち四社が造営されたともいう。しかし義重にかかわる伝承は年代などが合わず未詳。


赤城神社
あかぎじんじや

[現在地名]富士見村横室

横室よこむろ北西端の字初室しよむろにある十二じゆうに(国見ヶ丘、二三八・六メートル)山頂にある。山の斜面には一千庚申塔が建てられており、山頂と山麓には古墳がある。老松の樹下には山ツツジが一面に繁殖していて開花期には全山紅に包まれ、青松と相映じて美観を呈する。祭神は豊城入彦命・大山祇命・大己貴命など。


赤城神社
あかぎじんじや

[現在地名]新宿区赤城元町

牛込台北角の台地上に位置する。近世には赤城明神とよばれ、別当は等覚とうがく寺が勤めていた。社伝によれば正安二年(一三〇〇)に上野国赤城山赤城明神の分霊を早稲田わせだ村の「田島」の地に勧請したのが草創とされ、寛正年中(一四六〇―六六)に太田道灌が当地に移したという。牛込城主牛込氏の氏神で、「改撰江戸志」は上野国大胡おおご(現群馬県大胡町)から牛込城に移り、牛込氏の祖となった大胡重治の勧請とする。


赤城神社
あかぎじんじや

[現在地名]流山市流山五丁目

宿しゆく地区の中央、赤城山とよばれる標高一〇メートルほどの山丘西側に鎮座する。大己貴命などを祀り、旧郷社。草創年代などについては明らかではないが、江戸時代には流山村の鎮守社で上州赤城神社の分霊を勧請したものと伝える。元和六年(一六二〇)社殿を建立(社蔵棟札)。現在、当社の例祭日は一〇月二〇日。祭礼前の同月一〇日(かつては同一五日)宮薙に鳥居前に掲げられた大注連縄の取替行事(大注連縄神事)が執行われる。


赤城神社
あかぎじんじや

[現在地名]長岡市四郎丸二丁目

祭神は武甕槌命。嘉暦三年(一三二八)四郎丸しろうまるの東南の方にあった大沼から出現した霊剣を奉斎し、社殿を建立したのが始まりと伝える。のち、付近一帯の総鎮守となり、屈指の大社となった。芹川せりかわの城主で上杉氏の家臣五十嵐氏が崇敬し、社領や種々の重宝を寄付したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

百科事典マイペディア 「赤城神社」の意味・わかりやすい解説

赤城神社【あかぎじんじゃ】

群馬県宮城(みやぎ)村(現・前橋市)三夜沢(みよさわ)に鎮座。旧県社。主祭神は赤城神。延喜式内の名神大社。赤城山信仰の中心として関東一帯に信仰圏を形成。のち赤城山上の大沼(おの)・小沼(この)の沼神信仰が加わり,《神道集》では大沼(赤城大明神)・小沼(高野辺(たかのべ)大明神)と地蔵岳(覚満(かくまん)大菩薩)を赤城三所明神としており,大沼の赤城神社を本宮とする考えが起きた。

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デジタル大辞泉プラス 「赤城神社」の解説

赤城神社

群馬県前橋市にある神社。創祀不明。祭神は赤城大明神、大国主神(おおくにぬしのかみ)、磐筒男神(いわつつおのかみ)、磐筒女神(いわつつめのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)。赤城山山頂の大沼のほとりに位置する。大洞(だいどう)赤城神社ともいう。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「赤城神社」の意味・わかりやすい解説

赤城神社
あかぎじんじゃ

群馬県中東部,前橋市北部にある元県社。オオナムチノカミ,トヨキイリヒコノミコトをまつる。例祭 5月8日。関東各地に多くの分社がある。

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世界大百科事典(旧版)内の赤城神社の言及

【赤城山】より

…重曹泉,44℃)は元禄年間(1688‐1704)に宿があったという歴史のある温泉で,赤城山の登山基地となり,近くに忠治・滝沢の2温泉がある。【守屋 以智雄】
[信仰]
 赤城山は古くから信仰の対象とされており,三夜沢(みよさわ)(勢多郡宮城村)の赤城神社を中心として,社家の布教活動によって関東一帯に信仰圏を形成する一方,赤城山周辺には数多くの赤城神社がまつられている。赤城山神は880年(元慶4)に従四位上に叙せられたが,この時には赤城石神と記されている。…

※「赤城神社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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