八森銀山(読み)はちもりぎんざん

日本歴史地名大系 「八森銀山」の解説

八森銀山
はちもりぎんざん

八森の東北部、小入こいり川上流真瀬ませ川上流に挟まれた地域にある。小入川銀山ともいい(梅津政景日記)、真瀬川上流の銀山を真瀬内ませうち銀山ともいう(秋田領内諸金山箇所年数帳)

梅津政景日記」寛永四年(一六二七)八月二四日条に「八森こいら(小入)川のといふき(問吹)致、深谷藤左衛門、中山八郎兵衛罷帰候、間歩数六つ、其之内壱荷ニ銀三拾目九分御座候間歩有り、何も入用指引、残銀六拾五匁九分持参候」とあって銀山の有望が伝えられた。その後銀鉱床二四、鉛鉱床九が発見され、堀尾氏・駒木氏が銀山奉行となり、山師四一人に屋敷を与えている。翌五年には家数が七〇軒余に増え、人数も七〇〇―八〇〇人となった。さらに同六年には人数が二千五〇〇―三千人、間歩小屋三三軒、住家一二二軒、普請山が三五という活況をみせた(梅津政景日記)

その後の様子を八森村古銀山覚(米山家文書)にみると、盛時には銀山奉行二人、米方役人二人、銀山町入口の十歩一番所に足軽一〇人が勤め、諸商人・職人・買石人の来往も盛んで、すべての売物から十分一役銀を徴収したほか、米・鉛・炭・酒・味噌・塩・油の七品目は留物として勝手売買を禁じられ、役所の御台所から払い出された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報