八田部村(読み)やたべむら

日本歴史地名大系 「八田部村」の解説

八田部村
やたべむら

[現在地名]総社駅前えきまえ一―二丁目・中央ちゆうおう一―二丁目・総社一―三丁目・総社

東は井手いで村、北は門田もんで村、南・西は真壁まかべ村に接する。古代の賀陽郡八部やたべ(和名抄)の遺称地で、中世には国衙領の八田部郷が一帯に成立する。永享元年(一四二九)の備中国惣社宮造営帳写(池上文書)に、棟別一間に二〇文を課せられた国衙領に郷名がみえる。戦国末期には宝福ほうふく寺の寺領一〇貫文があった(天正四年「宝福寺領検地帳」宝福寺文書)。天正五年(一五七七)五月二二日、小早川隆景は郷内他六貫文の田畠一町七反余を国貞景氏に打渡した(「八田部郷内他打渡坪付」萩藩閥閲録)


八田部村
はたべむら

[現在地名]西浅井町八田部

小山おやま村の北東、八田部盆地の北縁の傾斜地に立地。東部山地に発する大浦おおうら川支流の八田部川が南部を西流。同川の沖積により狭小な八田部盆地が開け、当村・小山村・山田やまだ村の三ヵ村がある。「伊香郡志」では古検は、田三〇町七反余・高四四六石余、畑一九町九反余・一七二石余、屋敷七反余・石高不明。寛永石高帳では高六一八石余、山城淀藩領。元禄郷帳では甲斐甲府藩領。文政石高帳では高七〇四石余、三河吉田藩領と幕府領(一七石)五社ごしや神社は、天平宝字五年(七六一)大炊王(のち淳仁天皇)菅浦保良すがうらほら宮に移ったとき皇子を当地で養育、王は幾度か当地を訪れ、五社明神を崇敬したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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