公庄村(読み)ぐじようむら

日本歴史地名大系 「公庄村」の解説

公庄村
ぐじようむら

[現在地名]網野町字公庄

高橋たかはし村の東南、生野内いくのうち村の北にあたる。東は中郡と境する。

慶長検地郷村帳に高一〇五・七五石「公庄村」とみえる。宮津藩領であったが、寛文六年(一六六六)幕府領となる。その後宮津藩領に復したと思われ、宝永二年(一七〇五)の宮津領辻高帳に村名がみえるが、享保二年(一七一七)幕府領となる。

小字たけくらべにある郡立こおりたて神社は、「丹哥府志」に「郡立大明神、丹後旧記に云、元明天皇和銅六年夏四月丹波たにわ五郡を割て丹後の国を置く、始め郡を分つ時、先づ加佐郡河守庄より始めて、竹野郡網野庄に終る、両所に公庄村を置く、蓋し始終を示すなり、其終る所に一社を建つ、蓋し帝を祀るなり、延喜式に云ふ生王部神社是なり、今郡立大明神といふ」とあるが、この社に生王部いくおうべ神社の別称はなく、生王部神社は隣村生野内村にあり、ともに日本根子天津御代豊国成姫命(元明天皇)を祀る。


公庄村
ぐじようむら

[現在地名]大江町字公庄

西に山地を背負い、東は由良川を挟んで常津つねづ村に相対し、南は日藤ひとう村、北は蓼原たでわら村に接する宮津街道沿いの村である。

慶長検地郷村帳に高三三七・〇五石「公庄村」とみえる。宮津藩領であったが、寛文六年(一六六六)幕府領、同九年宮津藩領、延宝八年(一六八〇)幕府領、同九年宮津藩領、享保二年(一七一七)には幕府領と変遷

近世の地誌「丹後風土記」に「河守へ廿五町人家六七十軒斗宿屋有、蓼原村へ半道」とあり、幕末の「但州湯島道中独案内」に「公庄村天津より一里、福智山よりの船着なり、時節によりここより福智山へも舟あり、さだまれる事なし」とみえ、由良川舟運の船着場としても栄えたことが推察される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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