(西野悠紀子)
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第43代に数えられる奈良前期の女帝。在位707-715年。天智天皇の第4皇女,母は蘇我倉山田石川麻呂の女姪娘(めいのいらつめ)。草壁皇子の妃,文武天皇,元正天皇,吉備内親王の母,持統天皇の異母妹。諱(いみな)は阿閇(阿陪)。和風諡号(しごう)を日本根子天津御代豊国成姫(やまとねこあまつみよとよくになりひめ)天皇という。706年(慶雲3)文武天皇が重病のため譲位しようとしたが,固辞して受けず,翌707年6月に没したことによって即位した。在位中の重要な事績に,和同開珎の鋳造,平城京への遷都,蓄銭叙位令の発布,《古事記》《風土記》の撰進などがある。715年(霊亀1)9月娘の氷高内親王(元正天皇)に譲位。721年12月に薄葬を遺詔して平城宮に没した。火葬して大倭国添上郡椎山陵(〈諸陵式〉は奈保山東陵)に葬った。没時に際して藤原房前(ふささき)を内臣に任じ,三関を固守,授刀寮・五衛府に鉦皷(しようこ)を設けるなど,厳戒体制をしいたのは,譲位後も太上天皇としてかなりの実権を有していたことを示している。《万葉集》に歌数首が伝わる。
執筆者:岸 俊男
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第43代天皇(在位707~715)。天智(てんじ)天皇第4皇女、母は右大臣蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)の女(むすめ)姪娘(めいのいらつめ)(宗我嬪(そがのひん))。諱(いみな)は阿閇(あえ)。いとこの草壁皇子(くさかべのみこ)に嫁し、軽(かる)皇子(文武(もんむ)天皇)、氷高(ひたか)皇女(元正(げんしょう)天皇)、吉備(きび)皇女を産む。689年(持統天皇3)草壁と死別。706年(慶雲3)文武天皇は病を理由に譲位の意を伝えたが固辞した。しかし翌年文武が崩じ、その子首(おびと)皇子(聖武(しょうむ)天皇)が幼少であったところから、皇位を嫡孫に間違いなく伝えるため、先帝の母たる阿閇が前例を破ってあえて即位した。その背後には首皇子の外祖父藤原不比等(ふひと)の強い勧めと支持があったと考えられる。この異例の即位を正当化する武器として初めて天智天皇に仮託した「不改常典(あらたむまじきつねののり)」なる論理が用いられた。在位中、和同開珎(わどうかいちん)の鋳造、平城遷都、『古事記』の選録、『風土記(ふどき)』の編纂(へんさん)などのことを命令実行したが、全般に不比等の影響が強かった。715年(霊亀1)元正天皇に譲位、721年(養老5)崩じ、奈良市奈保(なほ)山東陵に葬られた。
[黛 弘道]
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661~721.12.7
在位707.7.17~715.9.2
奈良前期の女帝。阿閇(陪)(あべ)皇女・日本根子天津御代豊国成姫(やまとねこあまつみしろとよくになりひめ)天皇と称する。天智天皇の第4皇女。母は蘇我倉山田石川麻呂の女姪娘(めいのいらつめ)。草壁(くさかべ)皇子の妃となり,707年(慶雲4)子の文武天皇の譲位の意思をうけて即位。710年(和銅3)平城京に遷都したのをはじめ,藤原不比等(ふひと)らの補佐を得て律令政治を推進した。715年(霊亀元)女の氷高(ひだか)内親王(元正天皇)に譲位。その後も宮廷に重きをなした。
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…ところで《日本書紀》によると,仲哀天皇没後,応神天皇のまだ即位しない間,神功皇后が政務を執ったのを摂政とするが,摂政は天皇の在位しているときに,皇族等が天皇に代わって政治を執るのをいうことからすると,神功皇后の統治形態は摂政よりも称制に当たる。また《続日本紀》によると,文武天皇の没後,元明天皇が践祚に先立つ2ヵ月間に万機を摂行したのも,称制といえよう。したがって称制の事例はすべて5例となるが,史料に称制と明記されているのは前の3例である。…
※「元明天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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