六人部是香(読み)むとべよしか

精選版 日本国語大辞典 「六人部是香」の意味・読み・例文・類語

むとべ‐よしか【六人部是香】

  1. 江戸後期の神道家、歌学者。父は節香。山城国京都府向日神社社司。平田篤胤門下。歌格研究にすぐれた。著書「長歌玉琴」「篶廼木綿垂(すすのゆうしで)」「古今集撰緝考」など。文化三~文久三年(一八〇六‐六三

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改訂新版 世界大百科事典 「六人部是香」の意味・わかりやすい解説

六人部是香 (むとべよしか)
生没年:1798-1863(寛政10-文久3)

江戸後期の国学者。京都の人。山城乙訓(おとくに)郡向日(むこう)神社神主。通称美濃守。舎号は篶舎(すずのや)。国学に長じ平田篤胤に入門。関西平田派の中心人物の一人。歌格研究,《古今和歌集》研究に力を注いだが,また幽冥観にもとづく神道論にも一見識を示した。蘭学の影響も受ける。

 晩年は京都三本木で神習舎を組織,皇学を鼓吹した。著書に《長歌玉琴》《古今集撰緝考》《顕幽順考論》などがある。
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朝日日本歴史人物事典 「六人部是香」の解説

六人部是香

没年:文久3.11.28(1864.1.7)
生年:文化3(1806)
幕末の国学者,神道家,歌学者。通称は縫殿,美濃守。号は葵舎,篶舎。六人部忠篤の子。幼少に父と死別,伯父の山城国乙訓郡向日神社(向日市)祠官六人部節香の養子となり,その職を継いだ。文政6(1823)年江戸に出て平田篤胤に入門し,よく研鑽して,平田派関西の重鎮として重んじられた。その著『顕幽順考論』は,人間存在を顕と幽との両世界に分けて神の性質について説いたもので,孝明天皇に進講するという栄誉に浴した。晩年は職を子の是房に譲って隠居,京都三本木に神習舎を開いて門人に教授した。歌学の造詣深く,歌格(歌の規則)研究の集大成ともいうべき『長歌玉琴』を著した。<参考文献>佐佐木信綱歌学論叢

(白石良夫)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「六人部是香」の意味・わかりやすい解説

六人部是香
むとべよしか

[生]寛政10(1798).4.22. 京都
[没]文久3(1863).11.28.
江戸時代後期の国学者。通称は縫殿,宿弥,美濃守。号は篶舎 (すずのや) 。山城国乙訓郡向日神社の社司。文政6 (1823) 年江戸に出て平田篤胤に国学,神道を学び,京都三本木に神習舎を興し,関西における平田派の頭領として活躍し,孝明天皇に進講したこともある。主著『顕幽順考論』『長歌玉の小琴』『古道本義伝』『産須那社古伝抄広義』。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「六人部是香」の解説

六人部是香 むとべ-よしか

1806-1864* 江戸時代後期の国学者,神道家。
文化3年生まれ。伯父六人部節香の養子。山城(京都府)向日(むこう)神社の神職をつぐ。平田篤胤(あつたね)の門人で,関西平田派の重鎮。晩年は京都に神習舎をひらいた。文久3年11月28日死去。58歳。通称は縫殿,美濃守。号は篶舎(すずのや),葵舎。著作に「顕幽順考論」「長歌玉琴(たまごと)」など。

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世界大百科事典(旧版)内の六人部是香の言及

【産土神】より

…産土神信仰を重視した平田派国学者には,この語を神学的に解釈する者が多い。六人部是香が産須那を産為根(うぶすね)として万物を産む根本の意に解し(《産須那社古伝抄広義》),また佐野経彦が,産為根はウブスニという語がウヂ(氏)という語に約したものと同義で,産土神は氏神のことだと説いている(《宇夫須那神考》)。そのほかに,産砂とあて梅宮神社の砂を出産の守りとするところから出たとする解釈(《神道名目類聚抄》)や,〈産住場(うぶすにわ)にて,産出てやがて住場なればにや〉(《神祇称号考》)とするものもある。…

※「六人部是香」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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