六瀬・六瀬村(読み)むつせ・むつせむら

日本歴史地名大系 「六瀬・六瀬村」の解説

六瀬・六瀬村
むつせ・むつせむら

丹波との国境近くの川辺郡北部に位置し、多田ただ庄六瀬のほか高陽院領の六瀬(村)史料みえる。近世には一帯諸村の総称として用いられた。「むつのせ」ともよんだ。

〔中世〕

「古事談」に「摂津の国羽束郡内の六瀬と云ふ所」と記されている。多田ただ庄のうちで、嘉禎三年(一二三七)三月二八日の北条泰時御教書案(多田神社文書)多田御家人の六瀬右近将監行弘がみえ、領家より夜討ちを咎められ勘気を被っていたが、無実が認められている。建長五年(一二五三)一〇月二一日の近衛家所領目録(近衛家文書)の「庄務本所進退所々」のうちに「六瀬 資平卿」とあり、高陽院領内とする。同目録に多田庄は「請所」のうちにみえ、京極殿(藤原忠実)領。六瀬は多田庄内のはずであるが、これとは別に高陽院(忠実の娘、鳥羽天皇皇后)領の六瀬があったものと思われる。正応三年(一二九〇)の宝帳布所進諸庄目録(同文書)にも「一段 六瀬」とある。弘安元年(一二七八)頃と考えられる金堂上棟引馬注進状(多田神社文書、以下断りのない限り同文書)では散所御家人分として「一疋 六瀬六人 寄合」とある。正和五年(一三一六)一〇月一三日の多田院堂供養指図には多くの警固の御家人のなかに「六瀬六人」が記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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