兼城村(読み)かにぐしくむら

日本歴史地名大系 「兼城村」の解説

兼城村
かにぐしくむら

[現在地名]久米島町兼城かねぐすく

具志川ぐしちやー間切南東部に位置し、北は大田うふた村、東は嘉手苅かでいかる村。大源うふなとう(白瀬川)が兼城湾に注ぐ。兼城かにぐしく(兼城泊。大港)伊敷索いしきなわグスクの要津で、河口付近は唐船小堀とーしんぐむいと称され、また浜川前はんがーめーともいった。「おもろさうし」巻一一の六八に「一 大くにとよむかねくすく(大国に鳴響む兼城)/せのきみ てつて あまやかせ(せの君〔神女〕を手擦り〔祈って〕喜ばせよ)/又 おきなわとよむかねくすく(沖縄に鳴響む兼城)/又 あさとれか しよれは(朝凪になると)/又 ようとれかしよれは(夕凪になると)/又 いたきよらは おしおけて(板美ら〔船〕を押し浮けて)」とある。「せのきみ」は具志川ぐしちやー伊敷索いしきなわの神女であろう。「琉球国由来記」には伊敷索いしきなわ御嶽の神名に「トヨムスノキミ御イベ」がある。絵図郷村帳に兼城村とみえる。琉球国高究帳では高頭二七五石余、うち田二四七石余・畠二七石余。康熙三〇年(一六九一)の久米具志川間切諸地頭作得帳(与世永家文書)によれば浜川大屋子が任じられており、采地は高一三石余、作得九石余。


兼城村
かにぐすくむら

[現在地名]糸満市兼城かねぐすく

報得むくいり川の河口右岸に位置する。同川を挟んで南は糸満いちまん村、西は海に面する。同川の河口には奥武おーとよばれる場所があり、かつて島であったと伝わる。「おもろさうし」巻二〇の三四に「一 かねくすくのろの(兼城のノロが)/まふりよわるおとまさり(守りたもう弟勝り)/やくめさ(恐れ多し)/やまといくさ よせらや(大和への戦闘を 寄せん)/又 くにかねののろの(国守りのノロが)」とみえる。

絵図郷村帳・琉球国高究帳に島尻兼城しまじりかにぐすく間切兼城村、「琉球国由来記」には兼城間切兼城村とみえる。


兼城村
かにぐしくむら

[現在地名]南風原町兼城かねぐすく

西門いりじようモーなどの丘陵の南斜面、宮平なーでーら村の南西に展開する村。西から南側に宮平みやひら(メーガーラ)が蛇行する。丘陵には内嶺うちみ城があり、「兼城くゑな」に謡われる兼城按司虎寿金がいたと伝える。また玉城王の末子大城按司次男稲福大主が村組を行ったという。慶長一八年(一六一三)一二月一五日の摩文仁(親方安恒)宛知行目録(南島風土記)に「はへ原間切兼城村」とみえる。絵図郷村帳にも村名がみえ、琉球国高究帳によると高頭一一九石余、うち田九六石余・畠二三石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の兼城村の言及

【糸満[市]】より

…沖縄県,沖縄島(本島)南西端,那覇から南へ12kmにある市。1961年隣接の三和,兼城(かねぐすく),高嶺の3村と合体,71年市制。人口5万3496(1995)。旧糸満町は漁業の町で,勇敢な糸満漁夫は,昔から日本本土をはじめフィリピン,マレー半島,ジャワ,スマトラ,セレベス,ボルネオ,ニューギニアなどの海域で〈アギャー〉と呼ぶ独特の追込み漁法で活躍したが,今ではそのかげは薄れた。現在第3種漁港に指定されており,南方漁業の中継基地をめざしている。…

※「兼城村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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