日本歴史地名大系 「内山田村」の解説 内山田村うちやまだむら 鹿児島県:加世田市内山田村[現在地名]加世田市内山田武田(たけだ)村・川畑(かわばた)村の南に位置し、北西部を加世田川が北流する。西尾(にしお)・坂口(さかぐち)・松元(まつもと)・中村(なかむら)・横平(よこひら)・玉虫野(たまむしの)・田頭(たがしら)・山下(やました)・市来(いちき)・脇(わき)・金気田平(かなきたびら)・大野(おおの)・西村(にしむら)・田之野(たのの)・鉄山上(てつやまかみ)・鉄山下・東山(ひがしやま)の集落がある。中世は加世田別符のうちに含まれ、山田と称された。薩摩国建久図田帳に加世田別符内の公領七五町のうちに「山田村二十町」とみえ、名主は肥前国住人石居入道と記される。延文六年(一三六一)四月二〇日、島津忠政(道春)は加世田別符内の山田など五ヵ所を子息の公忠に譲与している(「島津道春譲状」早稲田大学蔵下野島津文書)。 内山田村うちやまだむら 鹿児島県:姶良郡隼人町内山田村[現在地名]隼人町内山田国分郷小田(おだ)村の東にあり、北西は日当山(ひなたやま)郷朝日(あさひ)村。北の国分郷内(うち)村、東の同郷見次(みつぎ)村とともに正八幡宮(現鹿児島神宮)の宮内とされた(三国名勝図会)。建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)には桑西(くわのさい)郷として「内山田五十丁」とある。慶長四年(一五九九)五月一七日には「宮内う地山田村」のうち高五〇石・屋敷二(うち一〇石畠方)が、島津竜伯(義久)から社家留主次郎三郎を通じ正八幡宮へ寄進された(「島津竜伯寄進状」留守文書)。同一一年には内山田村内の鳥居内にある屋敷一反余(分米一俵余)が竜伯病気平癒祈願のため社家沢氏に寄進され(「証状」旧記雑録)、村内の上田八反余(分米一二石余)が同じく竜伯病気平癒祈願のため沢永温に寄進された(「証状」同書)。 内山田村うちやまだむら 福岡県:嘉穂郡桂川町内山田村[現在地名]桂川町内山田土師(はじ)村の南に位置し、村の北東を土師川(現泉河内川)が流れ、支流弥山(ややま)川が日の岡、庄の浦川が秋(あき)さやで合流する。小早川時代の指出前之帳では内山田村の田一六町三反余(分米二四一石余)・畠四町一反余(分大豆二八石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高三一八石余、うち大豆三二石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高三三五石余、家数一三・社一、人数一四八(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高も同じ。寛政期(一七八九―一八〇一)の家数四〇(うち酒家一・麹家一)・人数二一九、牛四二・馬四(別本「続風土記附録」)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by