刈谷城(読み)かりやじょう

日本の城がわかる事典 「刈谷城」の解説

かりやじょう【刈谷城/刈屋城】

愛知県刈谷市にあった平城(ひらじろ)。正しくは「刈屋城」である(刈谷の表記は、1950年の市制施行時に表記が改められたことによる)。同市内の衣ヶ浦とよばれる入江北端に築かれていた。1533年(天文2)に水野忠政が築城し、忠政は同城を新たな居城に定めて、本拠地を緒川城(知多郡東浦町)から移した(これについては異説もある)。徳川家康の生母於大は忠政の娘で、刈谷城から岡崎城(岡崎市)の松平広忠(家康の父)に嫁した。忠政の死後、家督を継いだ信元(於大の兄)は今川氏を離れて織田方についたため、於大は松平家から離縁されている。刈谷城主の信元は1575年(天正3)、信長家臣・佐久間信盛の讒言(ざんげん)により武田氏との内通を疑われ、信長の命により岡崎の大樹寺で家康に殺害された。代わって信盛が城主となったが、信長は1580年(天正8)、信盛を追放し、水野忠重(信元・於大の弟)に刈谷城を返還した。その後、忠重は豊臣秀吉の命により伊勢の神戸城に移封されたが、1594年(文禄3)に再び刈谷城主に返り咲いている。1600年(慶長5)、忠重の子・水野勝成は刈谷3万石の藩主となり刈谷城を居城として、西尾藩の初代藩主となった。その後、勝成は大和郡山へ転封となり、1632年(寛永9)に三河吉田城に移封されるので勝成の弟・忠清が刈谷藩主(城主)となった。その後、深溝松平氏、久松松平氏、稲垣氏、阿部氏、本多氏、三浦氏の譜代大名を経て、1747年(延享4)に三河西尾城主だった土井利信が入城し、土井氏が9代続いて明治維新に至った。1871年(明治4)の廃藩置県とともに刈谷藩は廃され、刈谷城は廃城となった。現在、刈谷城の本丸跡が亀城公園として整備され、本丸を囲む土塁や水堀の一部が残っている。名鉄三河線刈谷市駅から徒歩約15分。◇亀城ともよばれる。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の刈谷城の言及

【刈谷[市]】より

…平安末期には重原荘が置かれ,重原氏,次いで二階堂氏が支配した。市域が本格的に開けるのは1533年(天文2)に水野忠政(徳川家康の生母於大の方の父)が刈谷城を開いてからで,以後譜代大名が居城し城下町として栄えた。白魚,酒,木綿の名産地で,白魚は毎年刈谷藩から幕府に献上された。…

※「刈谷城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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