日本大百科全書(ニッポニカ) 「刈谷藩」の意味・わかりやすい解説
刈谷藩
かりやはん
刈屋藩とも書く。三河国刈谷(愛知県刈谷市)に城地を置く譜代(ふだい)藩。戦国末この地を支配する水野氏があり、忠政(ただまさ)のとき城を築く。以来豊臣(とよとみ)秀吉らに仕えるなかで刈谷から出たり入ったりしたが、1600年(慶長5)忠重が殺害されてのち家督を継いだ水野勝成(かつなり)(鬼日向(おにひゅうが))がここに3万石で封ぜられ刈谷藩の地位は確立した。勝成が大和(やまと)(奈良県)郡山(こおりやま)に移ると弟忠清(ただきよ)が就封、その後吉田(豊橋)に移ると、以後は松平(深溝(ふこうず))3万石、松平(久松)2万石、稲垣2万3000石~2万石、阿部1万6000石、本多5万石、三浦2万3000石、土井2万3000石等々の各氏が就封、土井氏のときこの藩の藩主家は定着した。この間、刈谷藩では1651年(慶安4)松平定政の剃髪(ていはつ)事件(幕府に意見書を提出、旗本のため所領返上を申し出る。慶安の変の先導的役割)により所領を没収され、また三浦氏は財政窮乏の打開策として、先納金に加え領内総検見(けみ)を実施して年貢増徴を企図したため元文一揆(げんぶんいっき)(1739)を誘発。土井氏もまたこの先納金制度の踏襲に加えて高掛金(たかがかりきん)を課そうとして寛政(かんせい)一揆(1790)を誘発している。このため土井利制(としのり)は領政不行届をとがめられ、それまで三河国碧海(へきかい)郡に集中していた領地の1万3000石余を奥州福島藩の1万石余と領地替えをさせられ、城付領とそれに匹敵する飛地(とびち)によって藩領が構成されることとなり、藩の基盤は弱いものとなった(その後若干修正はあったが、もとの領地形態に戻るものではなかった)。また土井氏の代々は短命であったり、さもなくば養子を迎えるなど不安定要素が多かった。こうした事情は幕末期にまで持ち込まれ、幕末、刈谷藩は保守と急進、佐幕と勤王など藩の中枢が分裂、家老が次々に勤王派藩士に殺害されるという事態が現出していた。1871年(明治4)廃藩、刈谷県、額田(ぬかた)県を経て愛知県となった。
[若林淳之]
『『刈谷市誌』(1970・刈谷市)』▽『藤野保著『幕藩体制史の研究』(1961・吉川弘文館)』