朝日日本歴史人物事典 「前田利常」の解説
前田利常
生年:文禄2.11.25(1594.1.16)
江戸時代の外様大名。加賀(金沢)藩第3代藩主,前田利家の4男。母は側室寿福院。慶長10(1605)年兄利長を継ぎ藩主となる。19年兄の死後その隠居領も合わせ領し,寛永11(1634)年幕府より加賀,能登,越中3カ国で119万2760石の領知判物を受ける。徳川幕府との緊張関係が残っていた時代で,幕府より少しでも謀反の疑いをかけられないよう隠忍を保ち,寛永8年幕府が金沢藩の軍事力強化の疑いを持ったとき,自ら江戸へ出向き弁疏してことなきを得ている。また同10年には嫡子光高の室に徳川家光の養女阿智姫(水戸徳川頼房の娘)を迎え,12年には3女満姫を家光の養女として広島藩主浅野光晟に嫁がせるなど幕府との融和を図っている。 その治政は城下町金沢の整備や元和の加賀,能登の総検地のほか,寛永4年から塩の専売制をしき,特に能登の浦々での塩生産を高め,その塩年貢の代償に米のとれない能登に塩手米として藩米を貸し与えている。16年家督を光高に譲り隠居し,次男前田利次を越中国富山藩10万石,3男前田利治を加賀国大聖寺藩7万石に分封している。正保2(1645)年光高の急死後,孫の綱紀が3歳で家督を継ぐと後見として再び藩政を握り,金沢藩農政の基本となる改作仕法を慶安4(1651)年から実施し,明暦2(1656)年に村御印を各村に与えほぼ完成させている。これにより村方の税率を一定化し藩財政を安定化させる一方,検地による隠田摘発や辰巳用水の開削および新田開発により年貢増徴を図った。また兵農分離を貫徹させ,十村制度の強化により有力上層農民を十村に任命し,領内支配組織の末端に組み込んでいる。家臣に対しては地方知行制を廃止し,俸禄制として藩による領内の一元的支配と農民の生産基盤確立に意を用いた。
(和泉清司)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報