改訂新版 世界大百科事典 「前田利常」の意味・わかりやすい解説
前田利常 (まえだとしつね)
生没年:1593-1658(文禄2-万治1)
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…加賀藩で1651年(慶安4)から56年(明暦2)にかけて行われた農政を中心とする藩政改革の名称。5代前田綱紀の初年,隠居の利常(3代)が親裁して,寛永期から問題化していた給人・百姓の窮乏の解決のために,藩庫の米銀を百姓に貸与して他借を禁じ,村ごとに免相(めんあい)を一定して給人の収納免も平均化し,蔵宿を設置して給人の年貢米の収納・販売を一手に担当させ,また算用場奉行―郡奉行・改作奉行―十村(とむら)の吏僚的農政機構に農民支配を一元化して地方知行制を形骸化した。…
…その東側を国道8号線と1897年開通の北陸本線が,また海岸沿いに北陸自動車道が縦貫するほか,北陸鉄道が鵜川遊泉寺まで通じる。江戸前期に金沢藩3代藩主前田利常の隠居城となり,城下町の整備,加賀絹,小松表,製茶,瓦生産の保護奨励が行われ,市発展の基礎が築かれた。機械工業が盛んで市の製造品出荷額の50%(1995)を占め,1916年創立の世界的なブルドーザーメーカー小松製作所の企業城下町的な性格を持つ。…
…しかも,この転換は譜代小藩にとどまらず,前期の藩政改革の中心的な課題となっていた。1651年(慶安4)から56年(明暦2)にかけて施行された加賀藩の改作法も第3代藩主前田利常の計らいになるものであったが,改作法の骨子も給人と百姓の分離,つまり百姓を藩主直属とすることであった。かくして,前期の藩政改革を貫く原則は,領主相互間の戦争を基底においた軍役賦課の領有原則からではなくて,石高制の基盤におかれる単婚家族小農経営存立の原則であったといえよう。…
…鎌倉時代末期の日像の教化をうけた日乗の建立と伝える。中世北陸日蓮宗の拠点の一つであったが,17世紀に加賀藩主前田利常以来前田家の支援によって,妙成寺は大きく発展した。現在重要文化財の堂塔伽藍が17世紀初頭から1670年代にかけて造立されたばかりでなく,利常は妙成寺を加賀・能登・越中3ヵ国の総録所とした。…
※「前田利常」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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