日本歴史地名大系 「剣吉村」の解説
剣吉村
けんよしむら
永禄一〇年(一五六七)頃と推定される一〇月一六日付の南部晴政書状(遠野南部文書)に「四戸殿人馬別ニ被立 馬見吉森之腰ヘ被致打立 かせき被申候」とあり、三戸南部一族の内紛時に当地は浅水とともに攻防の地となった。南部晴政派より軍勢が出動し、根城南部氏にも「見吉口」へ人馬の派遣が要請されている(九月一六日付「東政勝書状案」同文書)。当地は三戸城(現三戸町)北東の馬淵川中流左岸の要地で、八戸と三戸と浅水の南部一族の拠点を結ぶ三角形の中心点にあたるため南部一族出身の重臣北氏が配置されていた。北氏は浅水の南氏とともに反晴政・親信直派の頭目であったところから晴政の攻撃目標とされたものとみられる。同氏は三代南部時実の三男孫三郎宗実を祖とし、三戸城の北に屋敷があったところから北殿と称されたという(奥南旧指録)。
藩政当初は盛岡藩に属し、正保四年(一六四七)の南部領内総絵図に剣吉村、一六四石余とある。同年の郷村帳によれば一六四・八二九石のうち八九・九三九石が田であった。寛文四年(一六六四)八戸藩創設とともに同藩領に編入され、元禄一〇年(一六九七)の郷村御内所高帳に高四四八・二五一石、うち田二三三・二〇三石とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報