日本大百科全書(ニッポニカ) 「劉鶴」の意味・わかりやすい解説
劉鶴
りゅうかく / リウホー
(1952― )
中国の経済学者。河北(かほく)省昌黎(しょうれい)県で生まれる。青年期に101中学(日本の高校に相当)で習近平(しゅうきんぺい)と同学であった。また1968~1969年毛沢東(もうたくとう)の呼びかけで実施された上山下郷(じょうざんかきょう)運動においても、すでに習近平、王岐山(おうきざん)らと一緒に農村に入る経験をしている。1976年12月中国共産党に入党。中国人民大学工業経済学院工業経済専攻を卒業。2018年3月、国務院副総理に就任。
習近平政権における経済政策のブレーン。習近平より1歳年上。彼は習の総書記就任前に国務院発展センターの党書記として活躍していたが、習の総書記就任にあわせ2012年11月には党中央委員に、2013年3月国家発展和改革委員会副主任に、さらに経済分野担当と思われた李克強(りこくきょう)を差し置いて習自ら組長についた中央財経領導小組の弁公室主任に昇格した。劉鶴は経済工作会議の報告書作成など、習および党中央の重要経済方針の策定に直接深くかかわるようになった。前米大統領補佐官(国家安全保障担当)のトム・ドニロンThomas E. Donilon(1955― )が訪中し習近平に会見したときに、習は横にいた側近をさし、「こちらが劉鶴だ。……彼は私にとってきわめて重要だ」と話した。同じく『ウォール・ストリート・ジャーナル』は、劉鶴の任務はまさしく、今後数十年の中国を導く経済ビジョンの策定にほかならないと報じている。
2000年以降、多くの幹部子弟がハーバード大学などアメリカの一流大学に次々と留学するようになってきたが、彼の略歴をみると、これらの人たちより早く1994年から1995年にハーバード大学ケネディスクールに留学し、行政学修士(MPA)の学位を取得している。アメリカから帰国して朱鎔基(しゅようき)に見込まれ国務院で経済関係の仕事を行い、2011年3月から2013年3月まで財経領導小組弁公室副主任兼国務院発展センター党書記を務めた。劉鶴の存在が世界に知られるようになったのは、2012年2月に国務院発展センターと世界銀行とが共同調査研究プロジェクトを組織した際の成果報告書『中国2030』を公表したときで、このプロジェクトのリーダーとして劉鶴という名前が浮上した。劉鶴と習近平の関係をみるならば、劉鶴の動きは習近平をバックにしてなされていたことがわかる。アメリカ留学組が今後中央の基本路線や政策作成において一段と影響力を増してくるのではないかと予測される。
[天児 慧 2018年4月18日]