習近平(読み)しゅうきんぺい(英語表記)Xi Jinping

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

習近平
しゅうきんぺい
Xi Jinping

[生]1953.6.15?. 陝西,富平
中国の政治家。中国共産党中央委員会総書記(在任 2012~ ),国家主席(在任 2013~ ),国家中央軍事委員会主席(在任 2013~ )。父は国務院副総理などの要職を歴任し,毛沢東の戦友だった習仲勲。しかし文化大革命で失脚し,習近平も 1969年に陝西省に下放され農業コミューンで 6年にわたり肉体労働者として働いた。1974年に中国共産党に入党,陝西省の党支部書記となる。1975年に清華大学化学工程学部に入学。卒業後,国務院副総理の秘書を 3年務めた。1982年河北省正定県党委員会副書記,1985年に福建省廈門市党委員会常務委員および副市長に任命される。1987年に著名な歌手の彭麗媛と結婚。その後,福州市党委員会副書記,福建省省長を経て,2002年に浙江省省長代理に就任,2003年には浙江省党委員会書記となる。2007年,上海市の党委員会書記に就任。その後まもなく中国共産党中央政治局の常務委員 9人の一人に選ばれた。2008年3月,国家副主席に選出,2010年10月には中央軍事委員会の副主席に任命された。2012年11月に開催された中国共産党の第18期第1次中央委員会全体会議で中央政治局常務委員に再選され,胡錦濤の後継として総書記に就任。また同時に,党中央軍事委員会主席の座についた。2013年3月14日,全国人民代表大会で国家主席,国家中央軍事委員会主席に就任した。

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知恵蔵の解説

習近平

中国の国家副主席で、ポスト胡錦濤(フー・チンタオ)の最有力候補。2010年10月に開かれた「第17期5中全会」で、中央軍事委員会副主席に選出された。序列6位の政治局常務委員(党の最高意思決定機関)であり、人民解放軍を掌握するポストに就いたことから、順当に行けば、12年の第18回党大会で国家主席に選ばれることになる。
習氏は1953年北京生まれ。習仲勲元副首相を父に持ち、幼少年期は党幹部が集まる中南海に住んでいた。典型的な幹部エリート子息で、「太子党」の代表格と評されるが、文革期にはブルジョア知識人の一族として、16歳から7年間、陜西省の農村に「下放」された経験を持つ。74年に中国共産党に入党、父仲勲の復権がかなった翌75年に北京へ戻り、清華大学に入学した。79年に同大(化学工業学科)を卒業した後、党中央軍事委員会幹部の秘書を務めるが、地方官僚の道を志願し、自ら出世コースを離れた。
その後、25年間にわたり、河北省正定県の党委員会副書記、福建省アモイ市副市長、福建省長、浙江省長代理、上海市党委書記など地方の要職を歴任し、行政サービスの拡大や私企業の育成などで実績を重ねた。また、汚職にも強い姿勢で臨み、福建省寧徳地区の党委書記時代には汚職公務員1600人以上を処分している。99年には、中国全土をゆるがした大型脱税・収賄事件(アモイ遠華事件)が起こり、党幹部が次々と逮捕されたが、習氏はいっさい関与しなかった。こうしたことから、経済の実務派、クリーンな政治家としての評価も高い。
02年の第16回党大会で政治局常務委員の候補に挙がり、共青団出身で胡錦濤の信頼が厚い李克強(リー・コーチアン)とともに「第5世代のホープ」として注目されるようになる。この時は時期尚早として見送られたが、07年の第17回党大会で政治局常務委員入りを果たした。共青団系の現指導部に対立する江沢民(チアン・ツォーミン) (前国家主席)や太子党の曽慶紅(前国家副主席)らの後押しがあったものと見られる。翌08年3月の全国人民代表大会で国家副主席に選ばれ、同年8月に開催された北京オリンピックの責任者も務めた。
副主席就任後の初来日は、09年12月中旬。宮内庁が定める「1カ月ルール」を外れ、天皇陛下と会見したことで知られる。夫人は解放軍の国民的歌手・彭麗媛。

(大迫秀樹  フリー編集者 / 2010年)

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デジタル大辞泉の解説

シー‐チンピン【習近平】

[1953~ ]中国の政治家。陝西省出身。清華大学卒業。1974年中国共産党入党。2000年福建省長、2007年上海市党委員会書記・党中央政治局常務委員・中央党校校長を経て、2008年国家副主席就任。2012年、胡錦濤後任として党総書記・中央軍事委員会主席に就任。2013年3月、国家主席に就任。

しゅう‐きんぺい〔シフ‐〕【習近平】

シー=チンピン

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百科事典マイペディアの解説

習近平【しゅうきんぺい】

中国の政治家。陝西省富平の出身。父は中国革命元老の一人習仲勲。清華大学化学工程部卒業。2000年代に,福建省長,浙江省党書記,上海市党委員会書記を歴任。2007年,中国共産党中央委員会全体会議で政治局常務委員に選出され,中央書記処第一書記に就任,胡錦濤の後継者競争でライバルと目されていた李克強に水をあけたとされた。2008年,全国人民代表大会で,国家副首席に選出され,2010年,中央委員会常務委員会で中央軍事委員会副主席への就任が決定,胡錦濤国家主席の後継者となることが確実視されるに至った。この決定には,江沢民系の軍および共産党保守派の後押しがあったという見方もあり,〈国家核心的利益〉を全面に出している中国政府の今後の動向との関連でも習近平の動向はこれ以後国際的に関心を持たれてきた。2012年11月,中国共産党中央委員会で総書記・軍事委員会主席に選出され,2013年3月,全国人民代表大会で国家主席に選出された。首相にはかつてのライバル,李克強が選出され,習近平体制が発足した。2013年11月の共産党中央委員会第3回全体会議(3中全会)では,新政権が示す改革大綱の〈起草組〉で,前政権では温家宝がつとめた組長に,新政権では習近平国家主席が就任。李克強首相は副組長にも入らなかった。習近平は3中全会で発足が決まった〈中央国家安全委員会〉(中国版NSCとされる)と〈改革の全面深化指導小組〉のトップにも就任。国家主席,党総書記,中央軍事委員会主席と合わせ〈5権の長〉と呼ばれるなど〈集権化〉〈独裁化〉が進んだ。さらに2014年2月発足の〈中央網絡安和信息化領導小組〉(中央インターネット安全情報化指導委員会)でも習近平自身が組長に就任。歴代の最高権力者のうちでも軍・公安・情報機関に対してもっとも影響力を持つ存在となった。こうした権力集中と減速しているとはいえ巨大なGDP・膨張しつづける軍事力を背景に,超大国を自負する中国は習近平が前面に出て拡張主義的な軍事・外交政策を展開。ウクライナ危機などで対ロシア関係の岐路に立たされているもう一つの超大国米国の世界政策を牽制しつつ,太平洋・アジア地域に影響力をもつ経済大国日本に対して強硬姿勢をとり続けている。とくに尖閣問題で対立状況の続く日本に対しては,安倍内閣の歴史認識問題を大きく取り上げ,韓国朴槿恵大統領との会見や2014年3月の欧州歴訪で訪れたドイツでの講演で日本の〈歴史認識〉に対して厳しい批判を繰り広げている。しかし内政では,当局が実態を開示していないため詳細は不明だが,2013年11月の天安門自動車爆破事件,2014年3月の昆明駅無差別暴力事件など,明らかに体制批判を企図する暴力事件が連続して起っている。最高幹部を含む公職者の汚職事件が後を絶たない状況のなかで,〈権力集中〉〈独裁・統制強化〉という習近平体制の統治が,果たして中国が抱える民族問題,貧富格差是正,腐敗汚職対策,深刻化する大気汚染問題,経済成長の鈍化,民主化等々の課題への有効な対応をもたらすことができるか,懸念も拡大している。2015年3月の全人代で習近平指導部は〈四つの全面〉理念を提示,四つの全面とは,〈小康社会(ややゆとりのある社会を示す)の全面的実現〉〈改革の全面深化〉〈全面的な法治〉〈全面的で厳格な共産党管理〉を指す。習近平が個別に唱えてきた理念だが,体系化し習近平体制の指導理念とする狙いがある。
→関連項目薄熙來東トルキスタンイスラム運動

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

習近平
しゅうきんぺい / シージンピン
(1953― )

中国の政治家。中国共産党中央委員会総書記、党および国家中央軍事委員会主席、中華人民共和国主席、中央国家安全委員会主席。その他、中央各領導小組組長など兼任。
 陝西(せんせい)省富平(ふへい)県出身。1969年に文化大革命が始まって間もなく父である習仲勲(ちゅうくん)が批判され、自身も反動学生とされ、1969年から7年間、陝西省延安(えんあん)市延川(えんせん)県の文安駅公社梁家河(りょうかが)大隊という、きわめて生活環境の厳しい貧しい村に下放された。そこで下放知識青年としての活動に励み、1974年1月に中国共産党に入党し、やがて同生産大隊の党支部書記を務めた。7年近くの下放を終え、1975年に国家重点大学の清華大学化学工程学部に入学。1979年に卒業したのち、国務院弁公庁および中央軍事委員会弁公庁に勤務して、耿(こうひょう)(1909―2000。延安時代に習仲勲とともに政務、軍務の活動をし、1970年代には副総理および中央軍事委員会常務委員を務めた)の秘書をかけ持ちで務めた。
 1982年以降はもっぱら地方幹部として活動し実績を積み重ねていった。1982~1985年は河北(かほく)省正定(せいてい)県で党および武装部関係の責任者、1985~2002年の17年間はもっぱら福建(ふっけん)省の地方幹部として活動し、徐々に台頭し有力幹部になった。すなわち1985~1988年は厦門(アモイ)市、1988~1990年は福建省寧徳(ねいとく)地区、1990~1996年は福州(ふくしゅう)市、1995~2002年は福建省の党、政府、軍区での指導者となった。2002年に浙江(せっこう)省に副書記として赴任し、以後2007年まで、書記、省長、軍区第一書記などを歴任した。2007年3月、上海(シャンハイ)市党書記となり、同年10月には一挙に中央政治局常務委員に大抜擢(ばってき)された。この間、地方の現場で直接の出会いを通してつくった彼の人脈は、第18回党大会(2012)で党総書記に就任した直後には習近平指導部の「圏子(チェンツ)」(信頼できる人間関係の束)としては露骨には現れていなかった。しかし、第18回党大会以降、彼らは主要な分野の政策決定機関のトップを独占し、「大虎もハエも叩(たた)く」という反腐敗闘争を大々的に展開し、速やかに、果敢に権力の集中を図った。第19回党大会(2017)に向かう新たな指導部形成の過程では、徐々にしかも露骨に習の「緊密な関係」、「習近平圏子」(習人脈)といわれる人々を次々と要職に抜擢し、指導体制を固めていった。
 第19回党大会前年の2016年に、第18期中央委員会第6回全体会議(六中全会)で習近平を「党の指導的核心」と位置づけることが正式に承認され、第19回党大会では「習近平同志の『新時代の中国の特色ある社会主義』思想」という表現が党規約に盛り込まれることとなった。さらに同大会「政治報告」では、毛沢東(もうたくとう)の「建国」、小平(とうしょうへい)の「富国」に続き、習の「強国」の目標が全面的に打ち出された。これらによって習近平は毛沢東、小平に並ぶ突出した共産党の指導者として、第19回党大会以降も第2期習近平政権として、強力な指導力を発揮することとなった。[天児 慧]

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