加世田郷(読み)かせだごう

日本歴史地名大系 「加世田郷」の解説

加世田郷
かせだごう

鹿児島藩の近世外城の一つ。薩摩半島の西部、河辺郡の北西部に位置し、鹿児島城下から九里半の地にある(「三州御治世要覧」など)。天正二〇年(一五九二)四月吉日の薩隅日寺社領注文(旧記雑録)によると、加世田は上地一三町四反余・寺付六町六反余。所属村は、「三州御治世要覧」では赤生木あこうぎ片浦かたうら(現笠沙町)大浦おおうら(現大浦町)小湊こみなと武田たけだ村原むらはら地頭所じとうしよ益山ますやま宮原みやはら唐仁原とうじんばら内山田うちやまだ津貫つぬき川畑かわばた別府田間ぺつぷたまの一四ヵ村で、ほかに片浦浦・小松原こまつばら浦・小湊浦があった。なお寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳では坊津ぼうのつとまり秋目あきめ久志くし(現坊津町)上山田かみやまだ・中山田・下山田(現川辺町)の七ヵ村も加世田郷のうちとされている。しかしこのうち上山田・中山田・下山田の三ヵ村は明暦四年(一六五八)に山田郷として独立しており(諸郷地頭系図)、他の坊津など四ヵ村も実際には外城制の成立期に坊泊ぼうとまり郷・久志秋目くしあきめ(現坊津町)として分離していたと考えられることから、幕府へ提出した公帳としての前掲郡村高辻帳の記載は、当時の加世田郷の所属村の実態を反映していなかったとすべきであろう。当郷は鹿児島藩直轄領で、別府城(加世田城)跡近くに地頭仮屋が置かれ、周辺に衆中屋敷を集めた麓集落が形成され、野町もあった。幕末の加世田再撰史(加世田市立郷土資料館蔵)によれば、地頭仮屋は初め別府城内にあったが、寛文九年に焼失し、その後再建されたが、享保一二年(一七二七)に城の西方に移された。跡地は現在の武田地内にある加世田幼稚園敷地一帯にあたる。麓集落は武田村のうち、現在の武田北端部から麓町ふもとちよう一帯に形成されており、加世田川を挟んで東の川畑村に野町が形成されていた(加世田市史)。麓は加世田名勝志では竈数一五一・人躰一千三二八、前掲加世田再撰史では衆中の竈数二四六・人躰一千四〇九、地頭仮屋は二反二畝の敷地をもっていた。諸郷地頭系図によると、加世田郷の初代地頭は文明一八年(一四八六)一一月一五日の鷹屋たかや大明神(現竹屋神社)の棟札にみえる市来備前守家廉とされ、江戸時代最初の地頭は三原左衛門佐重種とみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報