坊津(読み)ボウノツ

デジタル大辞泉 「坊津」の意味・読み・例文・類語

ぼう‐の‐つ〔バウ‐〕【坊津】

鹿児島県南さつま市の地名。古くは三津さんしんの一として海外貿易の要地。遣唐使船の発着地。カツオ漁やポンカン栽培が盛ん。

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精選版 日本国語大辞典 「坊津」の意味・読み・例文・類語

ぼう‐の‐つバウ‥【坊津】

  1. ( 敏達天皇一二年(五八三)百済から渡来した日羅が建立した一乗院の僧坊があったところからの名称 ) 鹿児島県、薩摩半島南西部の地名。古くから日本三津の一つとして遣唐船の発着地、海外貿易の基地となった。現在は漁港。ポンカンを特産する。

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日本歴史地名大系 「坊津」の解説

坊津
ぼうのつ

現在の坊津町坊にあった中世から近世にかけての湊。「三国名勝図会」によると、坊津湊はから湊ともいわれ、広さ三町四〇間余、周囲三〇町余、深さ三六尋から四〇尋余、広くて底が深いため数百艘の大船を留め、いかなる大風に対しても安全だったという。一六二一年成立の「武備志」の日本考によると、坊津は伊勢安濃あの(現三重県津市)・筑前花旭塔はかた(博多津)とともに日本三津とされていた。同書の日本図には「坊津港」とともに「泊津港・久志港・秋目港」がみえるが、海外からみた坊津の呼称は、これらの港を含んでいたとも考えられる。

〔中世〕

鎌倉末期、河辺郡は北条得宗家の所領となっており、嘉元四年(一三〇六)四月一四日の千竈時家譲状(千竈文書)によると、得宗被官の時家は嫡子貞泰に河辺郡の地頭代官職・郡司職とともに「ハうのつ」を、三男熊夜叉丸に「大とまりの津」を譲っている。北条得宗家が河辺郡を領有したのは、貿易重視政策の一環としての海上交通の要衝である坊津・とまり津を掌握するためであった。坊津は近接する泊津と合せて坊泊とよばれていた。応永記(旧記雑録)には応永一八年(一四一一)の先年のこととして「萩嶺ノ如御陳ノ時、京泊ヲ焼払、坊泊・別府・市来之大船廿艘来テ」と記される。応永年間には、薩摩平氏一族の別府氏が坊津を知行していたが(二月二四日「芥河愛河書状」同書)、島津久豊は当時若年であった別府氏当主を婿として迎え入れ、さらに河辺郡を領していた伊集院氏を服属させると、坊津・泊津に下向して大慶を味わったという(山田聖栄自記)。久豊の南薩平定は応永二七年頃とされ、平定の目的の一つは坊・泊の両津の領有にあった。この南薩平定を反映し、同三二年の久豊死去後まもなくに成立したとみられる年未詳七月一〇日の河辺郡知行目録写(長谷場文書)に「両津」とあり、これは坊津・泊津をさしている。永享七年(一四三五)六月三〇日の伊集院犬子丸(継久)宛の島津好久宛行状(旧記雑録)に、島津庄薩摩方の河辺郡のうち「五嶋・七嶋・坊泊津」とみえる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「坊津」の意味・わかりやすい解説

坊津
ぼうのつ

鹿児島県薩摩半島(さつまはんとう)南西部、川辺郡(かわなべぐん)にあった旧町名(坊津町(ちょう))。現在は南さつま市の南端部を占める。旧坊津町は1955年(昭和30)町制施行。2005年(平成17)大浦(おおうら)町、笠沙(かささ)町、加世田(かせだ)市、日置(ひおき)郡金峰(きんぽう)町と合併し南さつま市となった。亜熱帯植物の茂るリアス海岸は坊野間(ぼうのま)県立自然公園の中心で、入り江を結ぶ県道、国道226号が通じる。遣唐船の発着地で日本三津(さんしん)の一つ。583年(敏達天皇12)百済(くだら)僧日羅(にちら)が渡来、一乗院(いちじょういん)を建立して仏教文化が栄えた。唐僧鑑真(がんじん)の上陸地としても有名。中世には倭寇(わこう)の根拠地の一つで、南蛮船も出入りする貿易港となり、鎖国以降も薩摩藩密貿易基地であったといわれる。カツオ漁業従事者が多く、農業はポンカンが特産である。坊津歴史資料センター輝津館(ぼうのつれきししりょうせんたーきしんかん)には、国指定重要文化財絹本著色八相涅槃(ねはん)図(竜巌(りゅうがん)寺蔵)が保管され、ソテツ自生地が特別天然記念物、十五夜行事が重要無形民俗文化財として国から指定を受けている。

[白石太良]

『『坊津町郷土誌』全2巻(1969、1972・坊津町)』


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百科事典マイペディア 「坊津」の意味・わかりやすい解説

坊津[町]【ぼうのつ】

鹿児島県薩摩半島南西端,川辺(かわなべ)郡の旧町。坊津港は三津(さんしん)の一つで,古くから遣唐使の発着港として栄え,鎖国時代には密貿易の拠点であった。一本釣・定置網などの沿岸漁業,タイの養殖を行う。ポンカン,花卉(かき)なども産する。枕崎市からバス。2005年11月,加世田市,川辺郡笠沙町,大浦町,日置郡金峰町と合併し市制,南さつま市となる。38.61km2。4646人(2003)。
→関連項目

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「坊津」の意味・わかりやすい解説

坊津
ぼうのつ

鹿児島県南西部,南さつま市南部の旧町域。薩摩半島南西部にあり,東シナ海に臨む。 1955年町制。 2005年加世田市,笠沙町,大浦町,金峰町の1市3町と合体して南さつま市となった。南部の坊は古くは遣唐使船の発着港として,博多の那津,伊勢の安濃津とともに日本三津の一つとして栄えた。敏達 12 (583) 年に百済からの僧,日羅 (にちら) が建てたとされる名刹一乗院があり,坊津の名もこの僧に由来するといわれる。山がちで南と西が海に面し,坊津八景と呼ばれる屈曲に富むリアス海岸一帯は坊津として国の名勝に指定されている。また坊野間県立自然公園に属する。明治期よりカツオ漁業の先進地。ポンカンとエンドウを栽培するほか,養豚も盛ん。国指定特別天然記念物のソテツ自生地がある。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「坊津」の解説

坊津
ぼうのつ

鹿児島県の薩摩半島南西端に位置する古代からの要港。南と西は東シナ海に面する。敏達天皇12年に百済僧日羅(にちら)が建てたという竜厳寺の坊舎があったことにちなむ地名。天平年間(729~749)以後南島路による遣唐使船の寄港地になったことから,入唐道として,古来から日本三津の一つとされた。地名の初見は鎌倉時代。元寇以後は倭寇(わこう)の根拠地の一つとなり,江戸初期の鎖国以後も密貿易で賑わったが,享保の唐物崩れ(幕府による海事統制)以後は貿易港としての役割を失い,漁港として発展した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「坊津」の解説

坊津
ぼうのつ

鹿児島県南西部,薩摩半島南西岸にある港町
古来南方海上交通の要地として発達。室町時代島津氏の中国貿易・琉球貿易の根拠地となり,特に15世紀末以後遣明船の寄港によりいっそう栄え,三津 (さんしん) の一つに数えられた。江戸時代,長崎が貿易港となると衰えた。

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改訂新版 世界大百科事典 「坊津」の意味・わかりやすい解説

坊津 (ぼうのつ)

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事典・日本の観光資源 「坊津」の解説

坊津

(鹿児島県南さつま市)
三津」指定の観光名所。

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