現在の坊津町坊にあった中世から近世にかけての湊。「三国名勝図会」によると、坊津湊は
鎌倉末期、河辺郡は北条得宗家の所領となっており、嘉元四年(一三〇六)四月一四日の千竈時家譲状(千竈文書)によると、得宗被官の時家は嫡子貞泰に河辺郡の地頭代官職・郡司職とともに「ハうのつ」を、三男熊夜叉丸に「大とまりの津」を譲っている。北条得宗家が河辺郡を領有したのは、貿易重視政策の一環としての海上交通の要衝である坊津・
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
鹿児島県薩摩半島(さつまはんとう)南西部、川辺郡(かわなべぐん)にあった旧町名(坊津町(ちょう))。現在は南さつま市の南端部を占める。旧坊津町は1955年(昭和30)町制施行。2005年(平成17)大浦(おおうら)町、笠沙(かささ)町、加世田(かせだ)市、日置(ひおき)郡金峰(きんぽう)町と合併し南さつま市となった。亜熱帯植物の茂るリアス海岸は坊野間(ぼうのま)県立自然公園の中心で、入り江を結ぶ県道、国道226号が通じる。遣唐船の発着地で日本三津(さんしん)の一つ。583年(敏達天皇12)百済(くだら)僧日羅(にちら)が渡来、一乗院(いちじょういん)を建立して仏教文化が栄えた。唐僧鑑真(がんじん)の上陸地としても有名。中世には倭寇(わこう)の根拠地の一つで、南蛮船も出入りする貿易港となり、鎖国以降も薩摩藩の密貿易基地であったといわれる。カツオ漁業従事者が多く、農業はポンカンが特産である。坊津歴史資料センター輝津館(ぼうのつれきししりょうせんたーきしんかん)には、国指定重要文化財絹本著色八相涅槃(ねはん)図(竜巌(りゅうがん)寺蔵)が保管され、ソテツ自生地が特別天然記念物、十五夜行事が重要無形民俗文化財として国から指定を受けている。
[白石太良]
『『坊津町郷土誌』全2巻(1969、1972・坊津町)』
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鹿児島県の薩摩半島南西端に位置する古代からの要港。南と西は東シナ海に面する。敏達天皇12年に百済僧日羅(にちら)が建てたという竜厳寺の坊舎があったことにちなむ地名。天平年間(729~749)以後南島路による遣唐使船の寄港地になったことから,入唐道として,古来から日本三津の一つとされた。地名の初見は鎌倉時代。元寇以後は倭寇(わこう)の根拠地の一つとなり,江戸初期の鎖国以後も密貿易で賑わったが,享保の唐物崩れ(幕府による海事統制)以後は貿易港としての役割を失い,漁港として発展した。
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