勝川春好(読み)かつかわしゅんこう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「勝川春好」の意味・わかりやすい解説

勝川春好
かつかわしゅんこう
(1743―1812)

江戸中期の浮世絵師勝川春章(しゅんしょう)の門人で、役者絵を得意とした。本姓清川氏、俗称は伝次郎といい、江戸・長谷川町に居住したといわれる。春章門下では最古参で、師と同じく壺(つぼ)形の印を用いたので小壺ともよばれた。作画期は安永(あんえい)年間(1772~81)より没年ごろまでに及ぶと考えられるが、1787、88年(天明7、8)ごろ中風を病んでからは左筆で作画をした。春好の役者絵は細判(ほそばん)がもっとも多いが、大判に独特な迫力をもつ名作が多い。

[永田生慈]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「勝川春好」の意味・わかりやすい解説

勝川春好
かつかわしゅんこう

[生]寛保3(1743).江戸
[没]文化9(1812).10.28. 江戸
江戸時代中・後期の浮世絵師。勝川春章の門人。姓は清川,名は伝次郎。役者絵,役者の大首絵相撲絵などを描く。 45歳頃中風をわずらったため左手で描き,左筆斎と号する。主要作品『中村仲蔵石川五右衛門』。

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朝日日本歴史人物事典 「勝川春好」の解説

勝川春好

没年:文化9.10.28(1812.12.1)
生年:寛保3(1743)
江戸後期の浮世絵師。本姓は清川氏,俗称伝次郎。勝川春章門下の俊秀で,明和(1764~72)後期から寛政(1789~1801)前期にかけて,春章風を体現した細判役者絵や,東洲斎写楽に先行する役者大首似顔絵を発表した。寛政中期ごろ中風にかかって右手の自由を失い,以降は左筆で晩年まで作画を続けた。

(内藤正人)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「勝川春好」の解説

勝川春好(初代) かつかわ-しゅんこう

1743-1812 江戸時代中期-後期の浮世絵師。
寛保(かんぽう)3年生まれ。江戸の人。勝川春章の門人。役者絵を得意とし,のちに流行する役者大首(おおくび)絵を創始する。病気で寛政のころ右手の自由をうしない,左手でえがいた。文化9年10月28日死去。70歳。本姓は清川。通称は伝次郎。

勝川春好(2代) かつかわ-しゅんこう

勝川春扇(かつかわ-しゅんせん)

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世界大百科事典(旧版)内の勝川春好の言及

【勝川派】より

…江戸時代の浮世絵の一流派。源流は宮川長春を祖とする宮川派に発し,長春の孫弟子勝川春章に始まる。版画では似顔絵と呼ばれる写実的な役者絵,相撲絵を得意とし,半身像の大首絵,さらには大顔絵など,対象に近接した描写形式を開発し,明和~寛政期(1764‐1801)の役者絵界を風靡(ふうび)した。また肉筆画を専門とした宮川派の伝統を引き,この派の画家には肉筆画の名手が多い。勝川派の流れはさらに北斎の葛飾派へと受けつがれた。…

【役者絵】より

…勝川春章と一筆斎文調がその功績者であり,両者合作の《絵本舞台扇(ぶたいおうぎ)》(1770)は記念碑的作例として知られる。さらに春章門下の勝川春好,勝川春英(勝川派)らにより,大判錦絵の役者半身像〈大首絵(おおくびえ)〉形式が考案され,その延長線上に鬼才東洲斎写楽が登場する。 写楽は,1794年(寛政6)の夏狂言に取材して28枚の役者大首絵を発表,彗星のように浮世絵界にデビューするが,翌年初春の作品を最後に消息を絶ってしまった〈謎の浮世絵師〉である。…

※「勝川春好」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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