歌舞伎役者の舞台上の舞踊や演技の姿,あるいは日常の生活風俗を主題とした絵画の総称。特定の人気のある役者をモデルとする場合が多く,現代のブロマイドと同様熱狂的なファンの要求にこたえて大量に制作,販売された。そのもっとも早期の例は,寛文期(1661-73)を中心として流行した肉筆の一人立(ひとりだち)人物画像,いわゆる〈寛文美人〉の中に見いだされ,《右近源左衛門像》(東京国立博物館)などの作例が伝わる。江戸における浮世絵の成立とともに,役者絵の主たる表現手段は肉筆画から版画へと移り,元禄期(1688-1704)以降,美人画とともに浮世絵の中核をなすレパートリーとして定着していく。ことに18世紀の初頭に活躍した鳥居派の初代清信と2代清倍(きよます)は,荒事のたくましい動感を〈瓢簞足,蚯蚓描(みみずがき)〉と呼ばれる誇張した筋肉表現によって印象深くとらえ,独自の様式を確立して浮世絵役者絵の基礎を固めた。以後の鳥居派は,歌舞伎界との密接な関係を保って看板絵や番付絵などの制作を独占し,現代に至るまでその特殊な様式を伝承している。
1765年(明和2)の〈錦絵(にしきえ)〉の創始は,浮世絵木版画の版彩技法を一挙に完成させ,写実的な表現を格段に進歩させた。それまでの役者絵では,役者の風貌は一様に類型的に表され,画面上に記される名前や紋所ではじめて誰と知られる程度のものであった。ここにようやく役者一人一人の個性を描き分ける〈似顔絵〉が誕生することになる。勝川春章と一筆斎文調がその功績者であり,両者合作の《絵本舞台扇(ぶたいおうぎ)》(1770)は記念碑的作例として知られる。さらに春章門下の勝川春好,勝川春英(勝川派)らにより,大判錦絵の役者半身像〈大首絵(おおくびえ)〉形式が考案され,その延長線上に鬼才東洲斎写楽が登場する。
写楽は,1794年(寛政6)の夏狂言に取材して28枚の役者大首絵を発表,彗星のように浮世絵界にデビューするが,翌年初春の作品を最後に消息を絶ってしまった〈謎の浮世絵師〉である。その短い作画期に描いた140点余の役者絵は,舞台上の役者が見せるところの,現実と虚構の間を往復する二重の表情をきびしく観察し,残酷なまでにえぐり出すものであった。
写楽によって写実への志向をきわめつくした役者絵は,初世歌川豊国以下,国貞(3世豊国),国芳ら歌川派の絵師たちによって,再び理想的な様式美への傾斜を深めていく。写実を基礎におきながらも美化された役者姿絵は,彫摺技術の粋をこらした艶麗な版画表現にも助けられて,広く歌舞伎愛好家一般の歓迎するところであったが,幕末に下るにつれて量的な繁栄に反比例して質的な内容を衰弱させていった。わずかに国貞の弟子の豊原国周(くにちか)(1835-1900)が,大錦三枚続きの大画面に一人の役者の半身像を描くという意表をついた新形式を開拓,明治劇壇の活況を伝えて最後の光芒を放った。
また京坂においても,江戸の浮世絵の木版技法を学んだ上方役者絵が天明(1781-89)のころから興り,流光斎如圭,松好斎半兵衛,春好斎北洲,青陽斎蘆国らが活躍して,幕末まで活況を呈した。
→浮世絵 →芝居絵
執筆者:小林 忠
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歌舞伎(かぶき)役者を描いた風俗画の総称で、舞台姿を主に、楽屋や街頭、家庭内などにおける日常の姿も扱われた。また、役者が没したときに売り出された死絵(しにえ)(肖像に没年月日、享年、辞世などを添える)も見逃せない。特定の役者をモデルとした例は、すでに寛文(かんぶん)年間(1661~73)のころの肉筆画、いわゆる寛文美人画のなかに認められるが、浮世絵版画が定着する元禄(げんろく)年間(1688~1704)以降、美人画と並ぶ重要な分野として独立、発展をみる。役者絵専門の流派としては鳥居派(とりいは)がおこり、「瓢箪足(ひょうたんあし)・蚯蚓描(みみずがき)」という独特の様式を踏襲して、歌舞伎の絵看板などに現代まで続いている。18世紀後半から写生的な描写が試みられ、勝川春章(かつかわしゅんしょう)、歌川豊国(うたがわとよくに)、東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)、歌川国貞(うたがわくにさだ)らが個性的な作風を競った。上方(かみがた)にも江戸の浮世絵風が波及し、幕末に流光斎如圭(りゅうこうさいじょけい)らが活躍した。
[小林 忠]
歌舞伎役者やその風俗を描いた浮世絵。狭義の芝居絵(歌舞伎絵)。役者の似顔絵,舞台や楽屋でのようす,遊興・散策・寺社詣でなどの日常の姿が画題となった。人気役者が没した折に上梓された死絵(しにえ)も含む。すでに寛文期の肉筆美人画に役者絵の先例をみることができるが,浮世絵版画成立後の元禄期に歌舞伎の隆盛にともない役者絵が発達,役者絵を専門とする鳥居清信を祖とする鳥居派がおこり,美人画から独立した存在となった。錦絵時代には,勝川春章,歌川豊国・同国貞,東洲斎写楽など,役者の個性を描出する浮世絵師が輩出した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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【主題】
室町末期から桃山時代の風俗画は,貴賤僧俗のあらゆる階層にわたって,その時様風俗を活写しようとするものであったが,江戸時代に入ると間もなく,悪所における享楽的な事象に作画の対象が限定されるようになる。そうした傾向を引きついだ浮世絵は,当初から遊里風俗図と美人画,歌舞伎図と役者絵を,2本の柱として展開していった。美人画は,当初は大夫など高位の遊女の画像にほぼ限られていたが,やがて岡場所の遊女や芸者,あるいは水茶屋の女,評判の町娘などまで扱うようになった。…
…芝居町の風俗や劇場内外の景観を大観的にとらえるものから,人気役者の舞台上の舞踊や演技の態あるいは日常生活の場における姿を写すものなど,包含される題材は広範囲に及ぶ。別に〈歌舞伎絵〉の語も用いられ,一部は〈役者絵〉とも重なる。芝居絵の発生は,慶長年間(1596‐1615)の京都におけるお国歌舞伎の流行と同時に始まる。…
…浮世絵の一流派。元禄年間(1688‐1704)から現代に至るまで約300年間,歌舞伎界と密接な関係を保ち,芝居絵,役者絵を専業として家系をつないだ。劇場の絵看板(看板絵)や番付絵,役者姿絵の版画などは,いずれも演目と配役が決まりしだい上演に先立って作画にかかる必要があり,芝居にくわしく歌舞伎界のしきたりに通じていなくては難しい領域であった。…
※「役者絵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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