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「中村仲蔵」の意味・読み・例文・類語
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なかむら‐なかぞう【中村仲蔵】
- 歌舞伎俳優。
- [ 一 ] 初世。俳名秀鶴。屋号栄屋。江戸の人。立役・実悪にすぐれ、天明期(一七八一‐八九)の実悪の名優。志賀山流の舞踊の名手で、「関の扉」「戻駕」などを初演。仲蔵振りと呼ばれる。自伝「雪月花寝物語」、随筆「秀鶴日記」を残す。元文元~寛政二年(一七三六‐九〇)
- [ 二 ] 三世。江戸の人。慶応元年(一八六五)三世仲蔵を襲名。敵役・所作事で幕末から明治にかけて活躍。自伝「手前味噌」。文化六~明治一九年(一八〇九‐八六)
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中村仲蔵 (なかむらなかぞう)
歌舞伎役者。江戸系と大坂系の2派がある。江戸の初世,3世,大坂の初世,4世が名高い。
江戸系
(1)初世(1736-90・元文1-寛政2) 幼名万蔵。初名中村市十郎。前名中村中蔵。別名6世中山小十郎,8世志賀山万作。俳名秀鶴。屋号栄屋。浪人斎藤某の子とも,渡し守の甥ともいう。4歳のとき,5世中山小十郎・志賀山お俊夫婦の養子となり,7歳で踊りの稽古を始めるとともに,2世中村伝九郎(当時勝十郎)に入門,市十郎と称し,のち中蔵と改め,10歳で初舞台。以後,若衆方,立役へと進み,1761年(宝暦11)冬,中の字を仲に変えた。66年(明和3)色悪に転じ,9月市村座の《忠臣蔵》五段目に定九郎を勤め,演技に工夫をこらして新しい人間像を創造,出世芸となった。このときの苦心談は講談,落語に脚色されている。以来,実悪の諸役に腕をふるい《千本桜》の権太,《曾我》の工藤(釣狐の工藤),《荵売》の大日坊,《関の扉》の関兵衛など,仲蔵の型,仲蔵ぶりと呼ばれて後世に残る優れた表現を生んで,〈地芸の上手,所作の妙手〉とたたえられた。85年(天明5)冬,中山小十郎と改名,同時に志賀山万作を名のり,翌年10月《寿世嗣三番叟》を復活して,志賀山の一流を世にあらわした(志賀山流)。同冬,旧名に復して上坂。帰東後,《戻駕》に難波の次郎作を演じて好評を博したが,病を得,90年に没した。《月雪花寝物語》《秀鶴日記》などの手記を残した。なお,初世の養子中村万作(1768-98・明和5-寛政10)は,4世芳沢あやめの子で,初名芳沢鶴松,前名2世芳沢吉十郎。1785年(天明5)11月中村仲蔵を襲名したが,翌冬,万作名に復し,のち7世中山小十郎をつぎ役者をやめて振付に専心したため,代数に数えない。
(2)2世(1761-96・宝暦11-寛政8) 初名大谷永助。前名2世大谷春次,3世大谷鬼次。俳名十州。屋号政津屋。3世大谷広次門。1794年11月襲名。初世の芸風を伝えた。
(3)3世(1809-86・文化6-明治19) 幼名富太郎(亀吉とも)。前名初世中村鶴蔵。俳名雀枝,秀雀,舞鶴,秀鶴。屋号成雀屋,舞鶴屋,栄屋。5世中村伝九郎門。1865年(慶応1)10月襲名。《与話情浮名横櫛》の蝙蝠安(こうもりやす)が出世芸。著書に《手前味噌》がある。
(4)4世(1855-1916・安政2-大正5) 本名岩城米吉。初名中村銀之助,前名12世中村勘五郎。俳名秀鶴。屋号舞鶴屋。13世中村勘三郎,3世仲蔵門。1915年4月襲名。
(5)5世(1935-1992・昭和10-平成4) 本名中村正太郎。前名13世中村勘五郎。屋号舞鶴屋。1989年(平成1)4月襲名。
大坂系
(1)初世(?-1810(文化7)) 前名佐野川万吉。俳名素朝。屋号姫路屋。通称中橋,白万。2世中村十蔵の弟子中村岩蔵門。天明・寛政期(1781-1801)の浜芝居の大立者。(2)2世 初世の三男。前名中村柳蔵。俳名素朝。屋号姫路屋,井筒屋。初世の没後襲名。(3)3世 2世の養子。前名尾上徳三郎。つんぼ市と仇名された宮芝居の役者。(4)4世(1817-81・文化14-明治14) 前名初世坂東寿三郎。1848年(嘉永1)1月襲名。のちの4世中村嘉七。幕末・明治の名優。
執筆者:今尾 哲也
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中村仲蔵
なかむらなかぞう
歌舞伎(かぶき)俳優。
(1736―90)屋号栄屋(さかえや)。俳名秀鶴(しゅうかく)。『忠臣蔵(ちゅうしんぐら)』五段目の定九郎の新演出や天明(てんめい)期(1781~1789)における劇舞踊の大成者として著名な俳優。浪人の子に生まれる。江戸長唄(ながうた)の名手中山小十郎(こじゅうろう)(妻は志賀山お俊(しゅん))に養育された。門閥のない下回りから出発し、逆境と戦いながら実力をもって出世し、1785年(天明5)には実悪(じつあく)の至上上吉にまで昇った。色悪(いろあく)、敵役(かたきやく)、立役(たちやく)を兼ね、写実的な芸風で知られる一方、所作事(しょさごと)では当時の第一人者であった。常磐津(ときわず)地の『関の扉(せきのと)』や『戻駕(もどりかご)』の初演者。舞踊の志賀山流には「仲蔵ぶり」とよぶ独自の振(ふり)の型が伝わる。『月雪花寝物語(つきゆきはなねものがたり)』『所作修業旅日記』『秀鶴随筆』などの著書がある。
[服部幸雄]
(1759―1796)初世の養子。2世大谷春次(はるじ)、3世大谷鬼次(おにじ)を経て、1794年(寛政6)11月2世仲蔵を襲名した。初世仲蔵の芸風を慕い、よくそれを吸収していたが、襲名後まもなく没した。
[服部幸雄]
(1809―1886)初世同様下回りから出発し、苦労のすえ、実悪で古今の名人と称されるまでになった。1853年(嘉永6)に『与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)』の蝙蝠安(こうもりやす)を演じて成功、これが出世芸になった。1865年(慶応1)3世仲蔵を襲名。芸道の故実に通じ、芝居道の師匠番として重んじられた。『手前味噌(てまえみそ)』『絶句帖(ぜっくちょう)』の著書がある。
[服部幸雄]
(1855―1916)13世中村勘三郎の門弟。12世中村勘五郎が、1915年(大正4)4月に4世を襲名したが、翌年正月に病没した。
[服部幸雄]
(1935―1992)17世中村勘三郎の門弟。13世中村勘五郎が1989年(平成1)に5世仲蔵を襲名した。脇役(わきやく)として活躍したが早世した。
なお、上方(かみがた)にも中村仲蔵を名のる俳優があり、その名跡は4世まで続いた。初世は浜芝居の大立者として、天明(てんめい)・寛政(かんせい)期(1781~1801)に活躍した人。4世(1817―1881)は初世坂東寿三郎(ばんどうじゅうざぶろう)が1848年(嘉永1)に継いだ。3世中村歌七(かしち)の養子、後の4世中村嘉七(かしち)。2、3世は目だたなかった。
[服部幸雄]
『小池章太郎訳『口訳手前味噌――三代目仲蔵自伝』(1972・角川書店)』
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中村 仲蔵(3代目)
ナカムラ ナカゾウ
- 職業
- 歌舞伎俳優
- 別名
- 初名=中村 鶴蔵(初代),俳名=雀枝,秀雀,舞鶴,秀鶴
- 屋号
- 成雀屋,舞鶴屋
- 生年月日
- 文化6年
- 出生地
- 江戸(東京都)
- 経歴
- 父は浅草旅宿の番頭村田市兵衛。母は志賀山流舞踊師匠・11代目志賀山勢以。2歳で父を亡くし母の望む振付師を嫌って、文化11(1814)年5代目中村伝九郎(のち12代目勘三郎)の門人(のち女婿)となる。中村鶴蔵と名乗り、文政1(1818)年11月江戸中村座で初舞台を踏む。12年上方に行き、11月京北側芝居につとめ、のち諸国へ旅芝居に出る。天保9(1838)年4代目中村歌右衛門と共に江戸に戻る。安政1(1854)年「松扇杏鶴亀曽我」に表方清水屋源七に勧められて名題に昇進。慶応1(1865)年10月市村座「芦屋道満大内鑑」で3代目中村仲蔵を襲名。明治8年13代目中村勘三郎が借財のため引退した後を受け、一時中村座の名義人になって興行に携わる。後年は9代目市川団十郎や5代目尾上菊之助らの相手役をつとめ、古老として一目おかれた。19年6月中村座の新築落成の舞台開きに一世一代の口上を述べ、舞台より引退。への字形の厚い唇で“鰐口”などとあだ名されたが、時代物・世話物に適し実悪・老役を本領とした。また母親ゆずりの舞踊にもすぐれ、当たり役は「忠臣蔵」の九太夫、「髪結新三」の家主長兵衛、舞踊で「種蒔き三番」など。一方、文筆にも通じ著書に自伝の「手前味噌」「秀鶴日記」、句集「絶句帖」がある。中村勘三郎の14代目に数えられている。
- 没年月日
- 明治19年 12月24日 (1886年)
中村 仲蔵(5代目)
ナカムラ ナカゾウ
- 職業
- 歌舞伎俳優
- 本名
- 中村 正太郎
- 別名
- 初名=市川 太郎,前名=中村 勘五郎(13代目)(ナカムラ カンゴロウ)
- 屋号
- 舞鶴屋
- 生年月日
- 昭和10年 11月30日
- 出身地
- 東京都
- 学歴
- 中卒
- 経歴
- 2代目市川団右衛門の孫。3代目中村富十郎の曽孫にあたる。初め市川太郎と名乗り、昭和26年10月東京歌舞伎座「源氏物語」に殿上人役で初舞台を踏む。のち17代目中村勘三郎の門人となり、45年5月歌舞伎座「沼津」で3代目中村勘五郎を襲名。平成元年4月歌舞伎座「寺子屋」で5代目仲蔵を襲名。風姿・芸風・口跡がよく、堅実な立役として活躍した。
- 没年月日
- 平成4年 12月8日 (1992年)
- 家族
- 祖父=市川 団右衛門(2代目)
中村 仲蔵(4代目)
ナカムラ ナカゾウ
- 職業
- 歌舞伎俳優
- 本名
- 岩城 米吉
- 生年月日
- 安政2年 10月3日
- 出生地
- 江戸・四谷荒木町(東京都)
- 経歴
- 13代目中村勘三郎の門人となり、文久1(1884)年中村銀之助と名乗る。明治17年東京猿若座にて12代目中村勘五郎を襲名し、名題に昇進。この頃3代目中村仲蔵の門人となる。大正4年4月歌舞伎座で4代目中村仲蔵を襲名した。時代物と世話物に適し、敵役を本領として老け役を得意とした。
- 没年月日
- 大正5年 1月31日 (1916年)
- 伝記
- 郡司正勝刪定集〈第5巻〉 戯世の文 郡司 正勝 著(発行元 白水社 ’91発行)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
中村仲蔵(初代)
没年:寛政2.4.23(1790.6.5)
生年:元文1(1736)
江戸中期の歌舞伎役者。江戸生まれ。浪人斎藤某の子とも渡し守の某の甥ともいう。長唄師匠5代目中山小十郎と踊り師匠志賀山お俊夫妻の養子。中村勝十郎(のち2代目中村伝九郎)の門弟。初名中村市十郎から中蔵と改名,宝暦11(1761)年に仲蔵と改める。天明5(1785)年11月から1年間のみ6代目中山小十郎を名乗った。屋号栄屋,俳名秀鶴。若衆形から立役さらに実悪に転じた。容貌風姿に優れ,表情の演技が巧みであった。時代物を本領として,立役,色悪,敵役から女形に至るまで広く演じて成功した。志賀山流を学んで所作事に長じ,8代目志賀山万作を継ぎ,中村座の振付を兼ねた。従来女形の専売であった所作事を立役として積極的に演じて舞踊劇として大成させた。演技演出に新しい解釈を施して後期江戸歌舞伎の写実芸脈の源流的存在となった。『仮名手本忠臣蔵』五段目の斧定九郎役の扮装を,従来は山賊風であったのを落魄した浪人姿に改めたことは特に有名で,苦心談が講談や人情噺に脚色されて知られている。仲蔵の演技演出は「秀鶴の型」「仲蔵振り」として後世に伝えられた。当たり役は多く,工藤祐経,悪七兵衛景清,関守り関兵衛,大日坊,髭の意久,暫のウケ等が代表である。 初め仲蔵の素質を見抜いて取り立てた4代目市川団十郎の力も大きかったが,歌舞伎役者の家格や身分が固定してきた江戸中期にあって,下回りから座頭にまで出世し得たことは仲蔵自身の卓抜した才能と努力の結果であるとともに稀有な例であった。文筆にも趣味があり,『月雪花寝物語』『秀鶴日記』などの手記を残しており,当時の劇界の状況や俳優の生活を知るうえで貴重な資料となっている。 初代仲蔵が中山小十郎と改めていた1年間,養子の中村万作が仲蔵を名乗ったが,代数には加えない。また大坂には別系統の中村仲蔵の名跡があり,江戸中期から幕末・明治初期まで4代を数えるが,そのなかでは初代,4代が名優として知られている。<参考文献>「秀鶴日記」(吉田瑛二『歌舞伎絵の研究』),『日本庶民文化史料集成』6巻
中村仲蔵(3代)
没年:明治19.12.24(1886)
生年:文化6(1809)
幕末明治前期の歌舞伎役者。江戸生まれ。旅宿番頭村田市兵衛と日本舞踊志賀山流11代家元志賀山せいの子。幼名は富太郎(亀吉とも)。5代目中村伝九郎の門弟。中村鶴蔵から慶応1(1865)年に仲蔵を襲名。屋号成雀屋,舞鶴屋。俳名雀枝,秀雀,舞鶴,秀鶴など。時代物,世話物ともに巧みで所作事に長じ,実悪は名人の名を得た。当たり役のなかでは出世芸の蝙蝠の安五郎が名高い。芸道によく通じて尊敬を受けた。『手前味噌』『絶句帖』などの著作があり,いずれも貴重な資料である。4代目は3代目仲蔵・13代目中村勘三郎の門弟の12代目中村勘五郎が大正4(1915)年に襲名したが,翌年没している。<著作>郡司正勝校注『手前味噌』(復刻,1969。青蛙選書)
中村仲蔵(2代)
没年:寛政8.11.7(1796.12.5)
生年:宝暦11(1761)
江戸中期の歌舞伎役者。江戸生まれ。3代目大谷広次の門弟。大谷永助,同春次,3代目大谷鬼次を経て寛政6(1794)年に仲蔵を襲名した。屋号政津屋,俳名十洲。若衆形から立役に転じた。初代の芸風の忠実な継承者であったらしく人気もあったが,大成する前に没したために多くの事跡は伝えられていない。鬼次を名乗っていた寛政5年に江戸河原崎座で上演された「姫小松子日遊」中の長唄所作事「月顔最中名取種」に長田太郎役で主演して,その通称「鬼次拍子舞」にその名を残している。
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
中村 仲蔵(5代目)
ナカムラ ナカゾウ
昭和・平成期の歌舞伎俳優
- 生年
- 昭和10(1935)年11月30日
- 没年
- 平成4(1992)年12月8日
- 出身地
- 東京
- 本名
- 中村 正太郎
- 別名
- 初名=市川 太郎,前名=中村 勘五郎(13代目)(ナカムラ カンゴロウ)
- 屋号
- 舞鶴屋
- 学歴〔年〕
- 中卒
- 経歴
- 2代目市川団右衛門の孫。3代目中村富十郎の曽孫にあたる。初め市川太郎と名乗り、昭和26年10月東京歌舞伎座「源氏物語」に殿上人役で初舞台を踏む。のち17代目中村勘三郎の門人となり、45年5月歌舞伎座「沼津」で3代目中村勘五郎を襲名。平成元年4月歌舞伎座「寺子屋」で5代目仲蔵を襲名。風姿・芸風・口跡がよく、堅実な立役として活躍した。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
中村仲蔵(1世)
なかむらなかぞう[いっせい]
[生]元文1(1736).江戸
[没]寛政2(1790).4.23. 江戸
歌舞伎俳優。立役。屋号栄屋。俳名秀鶴。長唄師中山小十郎の養子。2世中村伝九郎の門弟となり,市十郎,中蔵を経て,一時舞台を退いたが,宝暦 10 (1760) 年仲蔵と改名。明和3 (66) 年『仮名手本忠臣蔵』の定九郎に新工夫をみせて評判をとり,以後種々の役に新演出を試み,秀鶴型として今日に残る。養母の跡を継いで,舞踊の志賀山流の家元も兼ね,歌舞伎の舞踊劇の大成に尽した。随筆『秀鶴日記』,自伝『月雪花寝物語』がある。
中村仲蔵(3世)
なかむらなかぞう[さんせい]
[生]文化6(1809).江戸
[没]1886.12.24. 東京
歌舞伎俳優。立役。屋号舞鶴屋。志賀山勢以の息子。5世中村伝九郎の門弟で,鶴蔵を経て慶応1 (1865) 年3世を襲名。敵役,老役にすぐれ,明治以降は名人といわれ,芝居道の師匠番と仰がれた。当り役は『与話情浮名横櫛』の蝙蝠安など。自伝『手前味噌』がある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
中村仲蔵(江戸系・3代) なかむら-なかぞう
1809-1886 江戸後期-明治時代の歌舞伎役者。
文化6年生まれ。3代志賀山せいの子。5代中村伝九郎に入門し中村鶴蔵を名のり,文政元年江戸中村座で初舞台。慶応元年3代を襲名した。実悪(じつあく)を得意とし,当たり役は「切られ与三(よさ)」の蝙蝠安(こうもりやす)。明治19年12月24日死去。78歳。江戸出身。俳名は雀枝,秀雀,舞鶴,秀鶴。屋号は成雀屋,舞鶴屋。著作に自伝「手前味噌」など。
中村仲蔵(江戸系・初代) なかむら-なかぞう
1736-1790 江戸時代中期の歌舞伎役者。
元文元年生まれ。2代中村伝九郎の門弟で,延享2年初舞台。宝暦11年中蔵を仲蔵とあらため,立役(たちやく)から実悪(じつあく)に転じる。「忠臣蔵」の定九郎役を工夫するなど,その新演出は秀鶴(しゅうかく)型として今にのこる。舞踊にもすぐれ,8代志賀山万作を称した。寛政2年4月23日死去。55歳。江戸出身。初名は中村市十郎。俳名は秀鶴。屋号は栄屋。
中村仲蔵(江戸系・4代) なかむら-なかぞう
1855-1916 幕末-大正時代の歌舞伎役者。
安政2年10月3日生まれ。13代中村勘三郎の門弟となり中村銀之助を名のる。明治17年12代中村勘五郎を襲名。のち3代中村仲蔵に師事,大正4年4代を襲名。敵役(かたきやく)と老役(ふけやく)を得意とした。大正5年1月31日死去。62歳。江戸出身。本名は岩城米吉。俳名は秀鶴。屋号は舞鶴屋。
中村仲蔵(江戸系・2代) なかむら-なかぞう
1759-1796 江戸時代中期-後期の歌舞伎役者。
宝暦9年生まれ。3代大谷広次の門弟。明和7年江戸市村座で初舞台。安永7年若衆方から立役(たちやく)となる。2代大谷春次,3代大谷鬼次をへて,寛政6年2代をついだ。寛政8年11月7日死去。38歳。江戸出身。初名は大谷永助。俳名は十洲。屋号は政津屋。
中村仲蔵(上方系・初代) なかむら-なかぞう
?-1810 江戸時代中期-後期の歌舞伎役者。
前名は佐野川万吉。2代中村十蔵の高弟中村岩蔵に入門し中村仲蔵を名のる。天明から寛政のころ大坂の浜芝居の大立者で,実事(じつごと),武道事にすぐれた。文化7年死去。通称は中橋,白万。俳名は素朝。屋号は姫路屋。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
中村仲蔵(なかぞう)
古典落語の演目のひとつ。人情ばなし。「蛇の目傘」とも。
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世界大百科事典(旧版)内の中村仲蔵の言及
【歌舞伎】より
…洒落本,黄表紙,川柳など〈通(つう)〉を理想とする質の高い文芸が展開するのもこの時期で,都市の消費生活のゆとりを反映しておおらかでのんびりした歌舞伎の作劇,芸,演出が喜ばれ,いわゆる天明歌舞伎が開花する。作者では初世桜田治助,役者では初世中村仲蔵が天明歌舞伎を代表する。治助の作品は伝統的な江戸歌舞伎独特の作風を洗練・発展させたもので,全体にはなやかなムードに包まれ,洒脱で機知に富んでいる。…
【座頭】より
…座頭役者の子が親の名跡(みようせき)を継ぎ,あるいは高弟が師匠の名跡を継いで,座頭となる場合が多かった。それだけに,下級の役者から出世して,実力だけで座頭の地位につくのは至難の業で,初世[中村仲蔵],4世[市川小団次]らは,その稀有な例。立女方(たておやま)を指して〈女方の座頭〉と呼ぶことはあった(《三座例遺志(さざれいし)》)が,原則として女方は一座の座頭にはならなかった。…
【自伝】より
… この点注目に値するのは,日本の自伝的伝統の根深さとその特質である。早くも平安朝に女流日記という形の優秀な自伝の輩出を見たばかりか,江戸時代にも山鹿素行,新井白石,松平定信などの武士をはじめ,町人学者の鈴木牧之,歌舞伎俳優の中村仲蔵,放浪僧の金谷上人など,幅広い階層にわたる自伝の輩出がみとめられる。しかも,ヨーロッパの自伝と異なり,その多くは,宗教,政治の色彩は希薄で,私生活に密着し,日常性が強い。…
【所作事】より
…振事は,歌舞伎舞踊の動きが物真似的な〈振り〉にあることから,また景事はとくに上方で,道行の景色を舞うことからいう。享保から宝暦期(1716‐64)に初世瀬川菊之丞,初世中村富十郎によって女方芸として洗練され,安永・天明期(1772‐89)には9世市村羽左衛門,初世中村仲蔵ら立役が進出し浄瑠璃所作事の隆盛をみ,また文化・文政期(1804‐30)に至って〈兼ねる〉役者の3世坂東三津五郎,3世中村歌右衛門らがいくつもの役柄を続けて踊る[変化(へんげ)物]を流行させた。所作事の上演には,花道,本舞台に所作舞台を敷き,出語り,出囃子となることがある。…
【月雪花寝物語】より
…歌舞伎役者初世[中村仲蔵]の自伝的随筆。成立年不詳。…
【仲蔵狂乱】より
…長唄。1784年(天明4)11月江戸桐座で,初世[中村仲蔵]の出羽郡司小野良実により初演。本名題《狂乱雲井袖(きようらんくもいのそで)》。…
【日本舞踊】より
… 享保から宝暦(1751‐64)には,初世[瀬川菊之丞]と初世[中村富十郎]が《無間の鐘(むけんのかね)》《石橋(しやつきよう)》《[娘道成寺]》などの名作を生み,女方舞踊を完成させた。また従来の長唄の伴奏以外に豊後節系の常磐津節・富本節,おくれて清元節など劇場音楽が発達し,物語的な舞踊劇の浄瑠璃所作事が完成,同時に演者も立役や敵役にまで広がって,初世[中村仲蔵]による《[関の扉](せきのと)》《[戻駕](もどりかご)》《[双面](ふたおもて)》の作を生んだ。江戸後期には3世[中村歌右衛門],3世[坂東三津五郎]を中心に[変化物]の上演が盛んになり,バラエティに富んだ小品舞踊の曲を組み合わせて,早替り,引抜きなどの技法によって1人で何役も踊り分けた。…
【手前味噌】より
…歌舞伎役者の自叙伝。3世[中村仲蔵]著。1855年(安政2)著者47歳のときに起筆され,晩年にいたるまで書き継がれる。…
【中村勘三郎】より
…その後51年まで座元を勤める。(13)13世(1828‐95∥文政11‐明治28) 1851年(嘉永4)座元を相続したが,幕末から経営不振が続き,75年には3世[中村仲蔵]に座元を譲った。ここに,江戸歌舞伎中もっとも古い歴史をもち,血縁にのみ名跡を継承させ,座元の地位を保った中村勘三郎の名跡は断絶した。…
※「中村仲蔵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」