北条義時(読み)ホウジョウヨシトキ

デジタル大辞泉 「北条義時」の意味・読み・例文・類語

ほうじょう‐よしとき〔ホウデウ‐〕【北条義時】

[1163~1224]鎌倉幕府第2代執権在職1205~1224。時政次男通称江馬小四郎。父時政の失脚後、執権となり、和田義盛を滅ぼして侍所別当を兼ねた。姉政子と協力して承久の乱を鎮圧し、幕府権力を安定させ、北条氏執権政治を固めた。

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精選版 日本国語大辞典 「北条義時」の意味・読み・例文・類語

ほうじょう‐よしとき【北条義時】

  1. 鎌倉幕府第二代執権。時政の子。通称江間小四郎。頼朝挙兵のときから父と共に各地で戦功を挙げ、頼朝の信任が厚かった。時政失脚後、執権となり、和田義盛を滅ぼして侍所別当を兼ねた。承久の乱で朝廷方を制圧し、後鳥羽・土御門・順徳の三上皇を配流して幕府権力を確立。長寛元~貞応三年(一一六三‐一二二四

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改訂新版 世界大百科事典 「北条義時」の意味・わかりやすい解説

北条義時 (ほうじょうよしとき)
生没年:1163-1224(長寛1-元仁1)

鎌倉幕府第2代執権。時政の子。江間(小)四郎と称す。1180年(治承4)源頼朝が平氏打倒の兵を挙げると,父とともにこれを助け,相模の石橋山の戦などに加わった。84年(元暦1)から85年(文治1)源範頼(のりより)に従い平氏討伐のため西国に出陣,豊後国などで転戦した。99年(正治1)頼朝が没し,子の頼家があとをつぐと,頼家の外家である比企能員の勢力が台頭した。義時の父北条時政,姉北条政子らはこれを嫌い,頼家がみずから訴訟を裁くのを停め,13人の有力御家人の合議によることとした。義時は時政や能員らとともに13名のメンバーに加えられている。頼家や比企氏と北条氏との対立は激化し,1203年(建仁3)ついに時政は比企氏を滅ぼし,将軍頼家を廃し,その弟実朝を将軍に擁立,執権(政所別当)となって,幕府の実権を握った。このとき義時は,政子の命を受け,比企一族が頼家の子一幡を擁して小御所にこもったのを攻撃し,のち一幡を殺害した。05年(元久2)継母の牧の方は時政に畠山重忠を讒言(ざんげん)し,時政は義時に命じて重忠を討たせた。義時はやむをえず武蔵の二股川で重忠を討ったものの,重忠の無実を信じており,彼には不本意な事件であった。この年,時政と牧の方は実朝を廃して女婿の平賀朝雅を将軍にしようとした。義時は政子の命を受け,時政邸にいた実朝を自邸に移して保護し,さらに時政を出家させ,伊豆に幽閉した(牧氏の変)。義時は父にかわって執権となり,幕府政治の実権を握った。

 1213年(建保1)には侍所別当和田義盛を滅ぼし,政所別当に加えて侍所別当をも兼ねるようになり,いよいよ権勢を強めた。19年(承久1)実朝が鶴岡八幡宮で頼家の遺児公暁(くぎよう)に殺され,公暁も三浦義村に殺され,源氏の正統は絶えた。従来公暁をそそのかして実朝を殺させたのは義時だとされてきたが,その確証はない。義時や政子がこれまで一貫して実朝を支持してきたことからみて,ありえないことであり,公暁をそそのかしたのは三浦義村だとする説も有力である。実朝が殺されたので,幕府は京都の摂関家から九条道家の子頼経を迎えて鎌倉の主とした。しかし実際に鎌倉の主として御家人を統率したのは政子であり,幕府官僚機構の頂点にある執権義時はこれを助けた。21年後鳥羽上皇は義時追討の宣旨を出して兵を挙げ,承久の乱がおこった。義時は子の泰時,弟の時房らを大将軍とする大軍を送り,京都を占領し,上皇を隠岐に流し,泰時・時房を六波羅探題として都にとどめ,朝廷との交渉,京都の警備,西国の政務などに当たらせた。また上皇方についた貴族・武士の所領3000余ヵ所を没収し,戦功のあった武士をそれらの土地の地頭に任命した。乱の結果,幕府の勢力は西国にも伸び,その支配はいっそう徹底するようになった。乱後3年たって,24年義時は急死した。病死とされているが,死因には不審がもたれ,近習に刺殺されたとか,妻伊賀氏に毒殺されたとかの説もある。
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朝日日本歴史人物事典 「北条義時」の解説

北条義時

没年:元仁1.6.13(1224.7.1)
生年:長寛1(1163)
鎌倉幕府の2代執権。父は時政,母は伊東入道の娘。早く源頼朝が伊東を追われて北条館に逃れてきたときに,建物を提供して頼朝に仕える。治承4(1180)年の頼朝挙兵後は石橋山の戦で兄の宗時が討死したことから家督となり,また頼朝の側近として行動した。平氏との合戦や奥州合戦で戦功をあげたのち,建久1(1190)年の頼朝の上洛では「家臣の最となす」とまで頼朝の信頼を得る。頼朝の死後は姉政子と連携をとりながら活動し,正治1(1199)年に源頼家を補佐する13人の御家人のひとりに選ばれ,建仁3(1203)年の比企氏の乱では,頼家の子一幡の館を襲撃し,政子の御所を襲った仁田忠常らを退けて,将軍源実朝の擁立を可能ならしめた。その後,父との対立が深まって,元久2(1205)年の畠山重忠の追討事件を契機にして,時政とその後妻牧の方,娘婿平賀朝雅を政子の協力を得て退け,幕府の実権を掌握した。やがて有力御家人の勢力削減に動き,守護職の終身制を改める方針を打ち出して,侍所の別当和田義盛と対立すると,建保1(1213)年に和田一族を挑発して挙兵させ,激戦の末に退けた。実朝を正面に立てたこの戦いで侍所の別当の地位を得ると,将軍の後見としてますます勢力は拡大し,4年には従四位下になり,翌年陸奥守となっている。 しかし義時への反発もまた強く,実朝も意のままになることを拒み始めたところで,承久1(1219)年1月に実朝が暗殺される事件が起こった。真相は明らかでないが,義時が黒幕であったとする説もある。かくて幕府を掌握することになった政子の使者として自ら上洛し,後鳥羽上皇と交渉した末に九条家から三寅(藤原頼経)を将軍の後継者に迎え,残っている源氏一族を滅ぼし,「尼将軍」政子の下で実権を握る形で幕府政治を推進した。こうした幕府の内紛をみて後鳥羽上皇は倒幕を計画したが,それを知った義時・政子は大軍を上洛させて破ると,3上皇の配流など,断固たる処置をとったばかりか,六波羅探題を設置し,西国の所領を没収したり,地頭職を任じて全国的な支配権を握った。こうして幕府の体制固めを行ったところで急死。後妻の毒殺の噂が流れ,再び幕府は緊張するが,政子が泰時を義時の後継者に指名し,以後,執権政治が本格的に展開する。<参考文献>安田元久『北条義時』

(五味文彦)

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百科事典マイペディア 「北条義時」の意味・わかりやすい解説

北条義時【ほうじょうよしとき】

鎌倉幕府第2代執権。時政の子。徳宗と号。父とともに源頼朝の幕府創業を助け,1205年父の失脚後執権となり,1213年和田義盛を破り(和田合戦)侍所別当を兼ねた。源実朝の死後は姉政子とともに幕政を握り北条氏専制の基礎を築いた。承久の乱で公家を圧倒,幕府権力を確立。
→関連項目鎌倉幕府公暁後鳥羽天皇執権政治承久記得宗富田荘北条氏北条政子

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「北条義時」の意味・わかりやすい解説

北条義時
ほうじょうよしとき
(1163―1224)

鎌倉幕府第2代執権。時政(ときまさ)の子。北条小四郎(こしろう)、江間(えま)四郎などと称した。相模守(さがみのかみ)、右京権大夫(うきょうごんのだいぶ)、陸奥(むつ)守を歴任。源頼朝(よりとも)の挙兵以来、父に従って活躍。頼家(よりいえ)のときも、元老重臣による合議制の一員として重要な政務にあずかった。1203年(建仁3)比企(ひき)氏が滅び、父時政が幕府の実権を握ると、翌04年(元久1)義時は相模守に任ぜられた。05年、実朝(さねとも)を廃そうと謀った父を、姉政子(まさこ)とともに幕府から追放した。幕府内における北条氏勢力の確立をねらう義時は、あなどりがたい勢力をもつ侍所別当(さむらいどころべっとう)和田義盛(よしもり)一族を13年(建保1)に滅ぼし、政所(まんどころ)と侍所の別当を兼ねて政務を独占した。ここに北条氏の幕府指導者としての地位がほぼ確立した。19年(承久1)には将軍実朝を暗殺して源家の血統を断ち、京都から九条道家(くじょうみちいえ)の子頼経(よりつね)を迎え、政子を表面にたて幕政を掌握した。後鳥羽(ごとば)上皇の討幕計画を察知した義時は、21年子泰時(やすとき)を大将として軍を上洛(じょうらく)させ京都を占領、上皇を隠岐(おき)に流し、泰時らを六波羅(ろくはら)に留め置いた(承久(じょうきゅう)の乱)。敵方からの没収所領3000余か所に、東国の御家人(ごけにん)武士を地頭(じとう)として送り、幕府の勢力範囲は一段と拡大した。事変後3年にして病を得、貞応(じょうおう)3年6月13日出家、同日急死した。

[田辺久子]

『安田元久著『北条義時』(1961・吉川弘文館)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「北条義時」の意味・わかりやすい解説

北条義時
ほうじょうよしとき

[生]長寛1(1163)
[没]元仁1(1224).6.13. 鎌倉
鎌倉幕府の2代執権 (在職 1205~24) 。時政の子。幼名は江馬小四郎。伊豆国北条を本領とした。治承4 (1180) 年頼朝の挙兵以来,父とともに協力し,平氏征討,奥州藤原氏討伐に参戦。元久1 (1204) 年従五位下,相模守。同2年6月武蔵国二俣川で畠山重忠と戦ってこれを破った。同年閏7月父時政の失脚ののち,あとをうけて執権に就任。建保1 (13) 年侍所別当和田義盛と戦って勝ち,侍所別当となった。同4年従四位下,同5年右京権大夫兼陸奥守。承久1 (19) 年将軍源実朝横死ののち左大臣九条道家の子三寅 (のちの将軍藤原頼経) を鎌倉に迎えて幕府の主とし,みずから幕政の実権を握った。同3年後鳥羽上皇の倒幕計画に大軍を派遣して京都を占領させ (→承久の乱 ) ,上皇以下順徳天皇,土御門上皇ら関係者を処罰し,鎌倉幕府は全国的政権へと発展していった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「北条義時」の解説

北条義時
ほうじょうよしとき

1163~1224.6.13

鎌倉前期の幕府執権。父は時政,母は伊東入道の女。幼少の頃は江馬(えま)小四郎と称した。父時政とともに,源頼朝に挙兵以来つき従って活躍。頼朝の死後,有力御家人13人に加えられ,将軍頼家にかわって訴訟の指揮にあたった。1205年(元久2)時政と対立,姉の政子と協力して時政を引退に追いこんだ。時政にかわり政所別当となったのち,13年(建保元)和田義盛を挑発してこれを討ち,義盛にかわって侍所別当の地位もえた。3代将軍実朝の横死後は,政子を助けて幕府を主導し,2代執権と称される。21年(承久3)の承久の乱の際には,御家人を指揮して後鳥羽上皇の軍を破った。乱後は後鳥羽上皇らを配流,京都に六波羅探題を設置した。突然の死については,毒殺との風聞もあった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「北条義時」の解説

北条義時
ほうじょうよしとき

1163〜1224
鎌倉幕府第2代執権(在職1205〜24)
時政の嫡子。江馬小四郎と称し,徳宗と号した。源頼朝の挙兵に父とともに従う。1204年相模守,翌'05年時政の後妻牧ノ方の陰謀事件(実朝を廃して,時政の女婿平賀朝雅 (ともまさ) を将軍に立てようとしたもの)で父を隠退させ執権となる。さらに '13年和田義盛を倒して侍所別当も兼ね,'19年将軍源実朝暗殺ののちは,姉政子とはかって藤原(摂家)将軍を迎え,政治的実権を握った。'21年の承久の乱には軍勢を上洛させて大勝し,後鳥羽上皇以下3上皇の配流を強行した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「北条義時」の解説

北条義時 ほうじょう-よしとき

1163-1224 鎌倉時代の武将。
長寛元年生まれ。北条時政の子。父とともに源頼朝の挙兵にしたがう。元久2年2代執権となり,建暦(けんりゃく)3年和田義盛をほろぼして侍所別当をかねた。3代将軍源実朝が暗殺された後は姉政子とともに幕政の実権をにぎり,承久(じょうきゅう)の乱で後鳥羽上皇を中心とした討幕軍をやぶり,北条執権政治の基礎を確立した。貞応(じょうおう)3年6月13日死去。62歳。幼名は江間小四郎。

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世界大百科事典(旧版)内の北条義時の言及

【執権】より

…執権は〈御後見〉〈政務ノ御代官〉などといわれ,政所別当として将軍家の家司であり,将軍を補佐して政務をすべる職であるが,将軍は名目にすぎず,実質的には執権が幕府の実権を握る最高の要職で,北条氏が世襲した。13年(建保1)和田義盛の滅亡後,執権北条義時は和田氏が持っていた侍所別当をも奪い,北条氏は政所・侍所別当を独占するようになった。25年(嘉禄1)執権泰時は連署を置いたが,当時執権,連署はともに執権と呼ばれたから,これ以来執権が2名になったものとみてよく,関東下知状,御教書などの公文書は,両執権の名で発布されるようになった。…

【執権政治】より

…鎌倉時代,北条氏が執権の地位によって,幕府の実権を掌握した政治体制。鎌倉幕府の歴史は,その政治形態によって,前期の鎌倉殿(将軍)独裁政治,中期の執権政治,後期の得宗専制政治の3期に区分される。中期の執権政治の特色として,第1に鎌倉殿に代わって執権北条氏が政権を握っていること,第2にその政治の性格は,その前後の時期の独裁・専制とは異なり合議政治であることがあげられる。これらの条件を考慮して,鎌倉殿独裁政治から執権政治への画期を求めると,第1の条件からは1203年(建仁3),第2の条件を満たすならば25年(嘉禄1)ということになり,これらをそれぞれ執権政治の成立・確立の時点と見る。…

【得宗】より

…鎌倉幕府執権北条氏の家督。徳宗,徳崇とも書く。鎌倉北条氏2代義時の法名に由来し,その嫡流の家督をさすようになり,さかのぼって初代時政のほか,夭折して家督を継がなかった時氏も含めて,いわゆる〈北条九代〉(時政,義時,泰時,時氏,経時,時頼,時宗,貞時,高時)を総称する語になった。初代時政は将軍源頼朝の外舅として一般御家人とは別格の地位を与えられていたが,頼朝没後,御家人の列に下り,1203年(建仁3)9月比企能員一族を攻め滅ぼして2代将軍頼家を追放し,政所別当に就任,幕政を執権した。…

【和田合戦】より

…1213年(建保1)5月2,3両日,鎌倉を舞台に和田義盛北条義時によって行われた合戦。この年2月,源頼家の遺児千寿を擁して大将軍となし,義時を除こうとする泉親衡(いずみちかひら)の謀叛が露見した。…

※「北条義時」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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