コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

北条義時 ほうじょうよしとき

8件 の用語解説(北条義時の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

北条義時
ほうじょうよしとき

[生]長寛1(1163)
[没]元仁1(1224).6.13. 鎌倉
鎌倉幕府の2代執権 (在職 1205~24) 。時政の子。幼名は江馬小四郎。伊豆国北条を本領とした。治承4 (1180) 年頼朝の挙兵以来,父とともに協力し,平氏征討,奥州藤原氏討伐に参戦。元久1 (1204) 年従五位下,相模守。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について | 情報

デジタル大辞泉の解説

ほうじょう‐よしとき〔ホウデウ‐〕【北条義時】

[1163~1224]鎌倉幕府第2代執権。在職1205~1224。時政の次男。通称、江馬小四郎。父時政の失脚後、執権となり、和田義盛を滅ぼして侍所別当を兼ねた。姉政子と協力して承久の乱を鎮圧し、幕府権力を安定させ、北条氏の執権政治を固めた。

出典|小学館
デジタル大辞泉について | 情報 凡例

百科事典マイペディアの解説

北条義時【ほうじょうよしとき】

鎌倉幕府第2代執権。時政の子。徳宗と号。父とともに源頼朝の幕府創業を助け,1205年父の失脚後執権となり,1213年和田義盛を破り(和田合戦)侍所別当を兼ねた。
→関連項目鎌倉幕府公暁後鳥羽天皇執権政治承久記得宗富田荘北条氏北条政子

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
百科事典マイペディアについて | 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

北条義時 ほうじょう-よしとき

1163-1224 鎌倉時代の武将。
長寛元年生まれ。北条時政の子。父とともに源頼朝の挙兵にしたがう。元久2年2代執権となり,建暦(けんりゃく)3年和田義盛をほろぼして侍所別当をかねた。3代将軍源実朝が暗殺された後は姉政子とともに幕政の実権をにぎり,承久(じょうきゅう)の乱で後鳥羽上皇を中心とした討幕軍をやぶり,北条執権政治の基礎を確立した。貞応(じょうおう)3年6月13日死去。62歳。幼名は江間小四郎

出典|講談社
デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて | 情報 凡例

朝日日本歴史人物事典の解説

北条義時

没年:元仁1.6.13(1224.7.1)
生年:長寛1(1163)
鎌倉幕府の2代執権。父は時政,母は伊東入道の娘。早く源頼朝が伊東を追われて北条館に逃れてきたときに,建物を提供して頼朝に仕える。治承4(1180)年の頼朝挙兵後は石橋山の戦で兄の宗時が討死したことから家督となり,また頼朝の側近として行動した。平氏との合戦や奥州合戦で戦功をあげたのち,建久1(1190)年の頼朝の上洛では「家臣の最となす」とまで頼朝の信頼を得る。頼朝の死後は姉政子と連携をとりながら活動し,正治1(1199)年に源頼家を補佐する13人の御家人ひとりに選ばれ,建仁3(1203)年の比企氏の乱では,頼家の子一幡の館を襲撃し,政子の御所を襲った仁田忠常らを退けて,将軍源実朝の擁立を可能ならしめた。その後,父との対立が深まって,元久2(1205)年の畠山重忠の追討事件を契機にして,時政とその後妻牧の方,娘婿平賀朝雅を政子の協力を得て退け,幕府の実権を掌握した。やがて有力御家人の勢力削減に動き,守護職の終身制を改める方針を打ち出して,侍所の別当和田義盛と対立すると,建保1(1213)年に和田一族を挑発して挙兵させ,激戦の末に退けた。実朝を正面に立てたこの戦いで侍所の別当の地位を得ると,将軍の後見としてますます勢力は拡大し,4年には従四位下になり,翌年陸奥守となっている。 しかし義時への反発もまた強く,実朝も意のままになることを拒み始めたところで,承久1(1219)年1月に実朝が暗殺される事件が起こった。真相は明らかでないが,義時が黒幕であったとする説もある。かくて幕府を掌握することになった政子の使者として自ら上洛し,後鳥羽上皇と交渉した末に九条家から三寅(藤原頼経)を将軍の後継者に迎え,残っている源氏一族を滅ぼし,「尼将軍」政子の下で実権を握る形で幕府政治を推進した。こうした幕府の内紛をみて後鳥羽上皇は倒幕を計画したが,それを知った義時・政子は大軍を上洛させて破ると,3上皇の配流など,断固たる処置をとったばかりか,六波羅探題を設置し,西国の所領を没収したり,地頭職を任じて全国的な支配権を握った。こうして幕府の体制固めを行ったところで急死。後妻の毒殺の噂が流れ,再び幕府は緊張するが,政子が泰時を義時の後継者に指名し,以後,執権政治が本格的に展開する。<参考文献>安田元久『北条義時

(五味文彦)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
朝日日本歴史人物事典について | 情報

世界大百科事典 第2版の解説

ほうじょうよしとき【北条義時】

1163‐1224(長寛1‐元仁1)
鎌倉幕府第2代執権。時政の子。江間(小)四郎と称す。1180年(治承4)源頼朝が平氏打倒の兵を挙げると,父とともにこれを助け,相模の石橋山の戦などに加わった。84年(元暦1)から85年(文治1)源範頼(のりより)に従い平氏討伐のため西国に出陣,豊後国などで転戦した。99年(正治1)頼朝が没し,子の頼家があとをつぐと,頼家の外家である比企能員の勢力が台頭した。義時の父北条時政,姉北条政子らはこれを嫌い,頼家がみずから訴訟を裁くのを停め,13人の有力御家人の合議によることとした。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
世界大百科事典 第2版について | 情報

大辞林 第三版の解説

ほうじょうよしとき【北条義時】

1163~1224) 鎌倉幕府二代執権。時政の子。江馬小四郎と称す。1205年執権、13年和田義盛を滅ぼして侍所の別当を兼ねた。実朝横死後は姉政子とともに幕政の実権を握り、承久の乱に勝利して幕府政権を確実なものとした。

出典|三省堂
大辞林 第三版について | 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

北条義時
ほうじょうよしとき
(1163―1224)

鎌倉幕府第2代執権。時政(ときまさ)の子。北条小四郎(こしろう)、江間(えま)四郎などと称した。相模守(さがみのかみ)、右京権大夫(うきょうごんのだいぶ)、陸奥(むつ)守を歴任。源頼朝(よりとも)の挙兵以来、父に従って活躍。頼家(よりいえ)のときも、元老重臣による合議制の一員として重要な政務にあずかった。1203年(建仁3)比企(ひき)氏が滅び、父時政が幕府の実権を握ると、翌04年(元久1)義時は相模守に任ぜられた。05年、実朝(さねとも)を廃そうと謀った父を、姉政子(まさこ)とともに幕府から追放した。幕府内における北条氏勢力の確立をねらう義時は、あなどりがたい勢力をもつ侍所別当(さむらいどころべっとう)和田義盛(よしもり)一族を13年(建保1)に滅ぼし、政所(まんどころ)と侍所の別当を兼ねて政務を独占した。ここに北条氏の幕府指導者としての地位がほぼ確立した。19年(承久1)には将軍実朝を暗殺して源家の血統を断ち、京都から九条道家(くじょうみちいえ)の子頼経(よりつね)を迎え、政子を表面にたて幕政を掌握した。後鳥羽(ごとば)上皇の討幕計画を察知した義時は、21年子泰時(やすとき)を大将として軍を上洛(じょうらく)させ京都を占領、上皇を隠岐(おき)に流し、泰時らを六波羅(ろくはら)に留め置いた(承久(じょうきゅう)の乱)。敵方からの没収所領3000余か所に、東国の御家人(ごけにん)武士を地頭(じとう)として送り、幕府の勢力範囲は一段と拡大した。事変後3年にして病を得、貞応(じょうおう)3年6月13日出家、同日急死した。[田辺久子]
『安田元久著『北条義時』(1961・吉川弘文館)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

世界大百科事典内の北条義時の言及

【執権】より

…執権は〈御後見〉〈政務ノ御代官〉などといわれ,政所別当として将軍家の家司であり,将軍を補佐して政務をすべる職であるが,将軍は名目にすぎず,実質的には執権が幕府の実権を握る最高の要職で,北条氏が世襲した。13年(建保1)和田義盛の滅亡後,執権北条義時は和田氏が持っていた侍所別当をも奪い,北条氏は政所・侍所別当を独占するようになった。25年(嘉禄1)執権泰時は連署を置いたが,当時執権,連署はともに執権と呼ばれたから,これ以来執権が2名になったものとみてよく,関東下知状,御教書などの公文書は,両執権の名で発布されるようになった。…

【執権政治】より

…鎌倉時代,北条氏が執権の地位によって,幕府の実権を掌握した政治体制。鎌倉幕府の歴史は,その政治形態によって,前期の鎌倉殿(将軍)独裁政治,中期の執権政治,後期の得宗専制政治の3期に区分される。中期の執権政治の特色として,第1に鎌倉殿に代わって執権北条氏が政権を握っていること,第2にその政治の性格は,その前後の時期の独裁・専制とは異なり合議政治であることがあげられる。これらの条件を考慮して,鎌倉殿独裁政治から執権政治への画期を求めると,第1の条件からは1203年(建仁3),第2の条件を満たすならば25年(嘉禄1)ということになり,これらをそれぞれ執権政治の成立・確立の時点と見る。…

【得宗】より

…鎌倉幕府執権北条氏の家督。徳宗,徳崇とも書く。鎌倉北条氏2代義時の法名に由来し,その嫡流の家督をさすようになり,さかのぼって初代時政のほか,夭折して家督を継がなかった時氏も含めて,いわゆる〈北条九代〉(時政,義時,泰時,時氏,経時,時頼,時宗,貞時,高時)を総称する語になった。初代時政は将軍源頼朝の外舅として一般御家人とは別格の地位を与えられていたが,頼朝没後,御家人の列に下り,1203年(建仁3)9月比企能員一族を攻め滅ぼして2代将軍頼家を追放し,政所別当に就任,幕政を執権した。…

【和田合戦】より

…1213年(建保1)5月2,3両日,鎌倉を舞台に和田義盛北条義時によって行われた合戦。この年2月,源頼家の遺児千寿を擁して大将軍となし,義時を除こうとする泉親衡(いずみちかひら)の謀叛が露見した。…

※「北条義時」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
世界大百科事典 第2版について | 情報

北条義時の関連キーワード長寛長寛勘文労働審判家電リサイクル法応保説文解字長寛源光行武豊覚明

今日のキーワード

百条委員会

地方自治体が議決により設置する特別委員会の一つ。名称は「地方自治法第100条」に基づく。百条委員会は、地方公共団体の事務に関する調査を行い、関係者への聞き取りや記録の提出を請求、拒否した者には罰則が科...

続きを読む

コトバンク for iPhone

北条義時の関連情報