改訂新版 世界大百科事典 「勧修寺経顕」の意味・わかりやすい解説
勧修寺経顕 (かじゅうじつねあき)
生没年:1298-1373(永仁6-文中2・応安6)
南北朝時代の公卿。権中納言坊城定資の次男。母は四条隆氏の女。初名忠定。蔵人,左少弁,春宮亮,蔵人頭を経て,1330年(元徳2)参議に昇り公卿に列した。ついで権中納言に進み,検非違使別当を兼ね,中納言を経て権大納言に昇り,42年(興国3・康永1)辞官した後も本座をゆるされた。58年(正平13・延文3)従一位に進み,70年(建徳1・応安3)には内大臣に昇ったが,翌年辞任し,73年正月5日,76歳で没した。終始持明院統の天皇・上皇に親近し,とくに光厳天皇には,立太子の日に春宮亮に任ぜられて以来信任され,同上皇の院政下では評定衆に列し,執権,伝奏として活躍し,さらに後光厳上皇の院中においても執事,評定衆の要職を占め,北朝の重鎮と仰がれた。またこの間,父祖より伝領した所領のほか,朝恩として数ヵ所の新所領を獲得し,勧修寺を家号として,同家の祖となった。
執筆者:橋本 義彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報