日本の城がわかる事典 「北ノ庄城」の解説 きたのしょうじょう【北ノ庄城】 福井県福井市にあった安土桃山時代の平城(ひらじろ)。織田信長は1573年(天正1)に朝倉氏を滅亡させた後、朝倉氏旧臣の桂田長俊(前波吉継)を守護代職に任命して越前国を統治させようとしたが、長俊は1575年(天正3)に一向一揆勢により討ち取られた。この一揆勢を平定したのが信長重臣の柴田勝家で、その功績により越前国北ノ庄を与えられ、同年、自身の縄張りによる居城の築造を開始した。この勝家の居城が、織田氏の北国支配の拠点となった北ノ庄城である。9層の天守をもった巨大な城であったといわれている。1582年(天正10)、本能寺の変で信長が死去すると、勝家と明智光秀を討った羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が対立し、両者は翌1583年(天正11)に賎ヶ岳の戦いで激突した。敗れた勝家は北ノ庄城に籠城し、城に火を放って妻のお市の方(信長妹)とともに自害した。このとき、北ノ庄城の多くが失われたとされるが、その後、青木一矩が同城に封じられたという記録も残っており、どのような経緯で廃城になったかは明らかでない。関ヶ原の戦い翌年の1601年(慶長6)、福井藩(北ノ庄藩)の初代藩主となった結城秀康(家康二男)は、北ノ庄城の跡地に新たな城(福井城)を築いた。そのため、勝家時代の北ノ庄城の遺構は現存していない。また、1993年(平成5)、6次にわたる発掘調査が行われ、北ノ庄城の本丸跡といわれてきた柴田神社の境内から石垣と思われる石が出土したが、城の正確な位置も特定できていない。JR北陸本線福井駅から徒歩約10分(福井城址)。◇北庄城とも記される。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報