北一色村(読み)きたいつしきむら

日本歴史地名大系 「北一色村」の解説

北一色村
きたいつしきむら

[現在地名]中川区広川ひろかわ町・舟戸ふなと町・愛知あいち町・九重ここのえ町・豊成ほうせい町・笈瀬おいせ

東は露橋つゆはし村、南は二女子にによし村、西は長良ながら村、北は米野こめの(現中村区)である。村の東端笈瀬川が流れ村境であった。現在は西南端から東北端まで中央を中川運河が通っている。北一色の地名は、文安三年(一四四六)祐待申状写(北野神社文書)

<資料は省略されています>

とあるのを初見とする。これより先、文和三年(一三五四)の熱田社領目録案(熱田神宮文書)に「字連一色 田畠三十二町四段二十歩 除已上 十二町一段、定二十町三段二十歩」とある「字連一色」をここにあてる説もある。則武のりたけは北一色を含む現中村区東南部・中川区北東部付近にあったもののようである。


北一色村
きたいつしきむら

[現在地名]岐阜市北一色一―一〇丁目・長森本町ながもりほんちよう一―二丁目

金華きんか山の支峰(約二〇〇メートル)南麓に位置し、中部以南は平坦地。西は岩戸いわど村、東は野一色のいつしき村で、集落は中央から東南部にかけて散在する。郡上ぐじよう街道が通る。長享二年(一四八八)三月一〇日の美濃国長森内領家方年貢銭注文(大徳寺文書)に「北一色」の中村五郎兵衛・次郎右衛門の名がみえる。慶長郷帳および元和二年(一六一六)の村高領知改帳に村名がみえ、高五六一石余。正保郷帳では田三七五石余・畑一八二石余・松山年貢二石余。領主の変遷は岩戸村と同じで、加納藩領当時、家中知行渡方帳(森文書)によれば家臣七名の給地。


北一色村
きたいつしきむら

[現在地名]楠町北一色

鈴鹿川本流の右岸本郷ほんごう村の北にある。江戸時代を通じて桑名藩領。文政七年(一八二四)の村明細差出帳(徳川林政史蔵)によれば、戸数二七、本百姓家持は男五五・女六〇、名子水呑は男一〇・女一五、牛四。耕地は田方が二六町八反余で四五二・七六石、うち二〇町九反余が上田である。


北一色村
きたいしきむら

[現在地名]佐屋町北一色

西は依田えだ村を通って佐屋さや村に接し、佐屋宿・佐屋代官所にも近い。「徇行記」によれば、概高六七二石余のうち六二三石余は藩士一〇人の給知で、田は三三町七反九畝余、畑は一〇町六反八畝余。「寛文覚書」に戸数三七、人数二三三人とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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