岩戸村(読み)いわとむら

日本歴史地名大系 「岩戸村」の解説

岩戸村
いわとむら

[現在地名]高千穂町岩戸

三田井みたい村の北東に位置し、東は山裏やまうら村、南は七折ななおり(現日之影町)、北は豊後国に接する。中世の高知尾たかちお庄岩戸郷の遺称地。近世には高千穂一八ヵ郷の一。慶長一四年(一六〇九)の岩戸竿帳(岩戸文書)は、延岡藩高橋氏治世下のもので、現存する県内最古の検地帳といわれている。この時期の当村は六四門から構成され、門ごとに給地・蔵入地の別が記され、農地一筆ごとの所在・種類・品等・広さ・作人名などをあげる。村全体の田数二町二反余・畠数一七二町五反余と畠が圧倒的に多い。給人は延岡藩家老甘木因幡ら二〇数名で、作人には百姓上々から百姓下々、名子上から名子下々までを肩書きされている者もいる。貞享四年(一六八七)の岩戸村勘文一紙帳(同文書)によると給人二二人に五―二〇石の給地が与えられ、給人たちの名請人一―九人が記されている。給人たちの田畠数七五町余・高二四〇石、残りは御蔵地で、田畠一〇〇町八反余・高三一七石余。真綿・漆を上納している。

岩戸村
いわどむら

[現在地名]岐阜市北一色きたいつしき一―二丁目・長森岩戸ながもりいわと織田塚町おだづかちよう宝来町ほうらいちよう隆城町りゆうじようちようあま崎町さきちよう岩栄町いわえいちよう雲竜町うんりゆうちよう永楽町えいらくちよう東興町とうこうちよう雪見町ゆきみちよう花月町かげつちよう塩町しおまち城望町じようぼうちようつき会町えちよう鶴見町つるみちよう旭見ひみ池町いけちよう

金華きんか山の南斜面から平地に及ぶ。北東から南西に細長く、北部は山に連なり、南西部は平坦地。集落は平地から延びて北の山裾に広がる。西は上加納かみかのう村、東は北一色村。文禄二年(一五九三)の滝川益成書状写(棚橋文書)に村名がみえる。

岩戸村
いわどむら

[現在地名]大朝町岩戸

南に文蔵ぶんぞう(六五五・九メートル)、東に雉子きじ山があり、その山麓を南西流する可愛えの川の支流岩戸川に沿って村落が開ける。東は桑田くわた生田いけだ(現高田郡美土里町)、南は川戸かわど(現千代田町)、西は新庄しんじよう、北西は宮迫みやざこの諸村に接する。村名は、康暦二年(一三八〇)一二月二五日付の足利義満御判御教書(吉川家文書)に「平田庄内岩戸村」とみえ、吉川経見の所領として安堵されている。天正末年頃の吉川広家領地付立(同文書)にも「参百貫 岩戸」とある。

元和五年(一六一九)の安芸国知行帳では高八八六・一八石とあるが、その後宮迫村が分村し、正徳二年(一七一二)の「所務役人頭庄屋郡邑受方記」によれば高五〇五・七七石。

岩戸村
いわとむら

[現在地名]印旛村岩戸

師戸もろと村・鎌刈かまがり村の西に位置し、南は西印旛沼に面する。東部の低地を師戸川が南流、南端の岩戸河岸と対岸の先崎まつさき(現佐倉市)との間には渡しがあった。寛永二〇年(一六四三)の田方検地帳(宗像村役場文書)があり、当時旗本米津領であった。延宝四年(一六七六)に幕府の直営牧であった印西いんざい牧の一部が開発され、惣深そうふけ新田(現印西市)が成立、同地のうち二〇七石余が当村に割渡された。下畑四一町三反余と屋敷一反余、納永四貫文余で地味は劣悪であった。同地は幕府領として幕末に至る(「惣深新田分検地帳」篠田家文書)。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分によれば幕府領と武蔵久喜藩領の相給で、高一千二九石余。

岩戸村
いわとむら

[現在地名]南牧村磐戸いわと

南牧川が桧沢ひさわ川を合して北部を北東流し、東は千原ちはら村や平原へばら(現多野郡中里村)など、南は桧沢村、西は大日向おおひなた村、北は塩沢しおざわ村と接する。南牧川右岸沿いに南牧道が通る。年未詳の上杉氏上州所領目録(彦部文書)に「岩戸村」とみえる。古は磐戸村と称したが、西北の高嶺より転落した大岩石が東・中・西磐戸に止まったために岩飛村と改め、のち岩戸に、さらに磐戸に改めたと伝承する。近世史料には岩戸が記され、磐戸には明治初年に改めたものと思われる。

近世はおおむね幕府領。寛文郷帳には元禄郷帳に枝村とする桧平ひのきだいら村とともにみえ、二村の高一三〇石二斗余はすべて畑方。元禄郷帳にはほかに枝村としてくぬぎ村を記す。

岩戸村
いわどむら

[現在地名]清川村臼尾うすお 岩戸

東流する大野川に北東流してきた奥岳おくだけ川が合流する地点の西方にある。北は大野川を隔て徳尾とくお(現大野町)、東は山方やまかた(現三重町)臼杵うすきおか城路がほぼ北東から南西に通る。中津無礼なかつむれ川との合流点から下流の奥岳川(宇田枝川)は岩戸川とよばれ、また徳尾村との間の大野川には岩戸渡が設けられていた(豊後国志)正保郷帳に村名がみえ、田高二石余・畑六四石余、耳忍みみしの郷に属し、柴山有と注記される。岡藩の小制札場が置かれていた(岡藩御覧帳細注)。元禄・天保両郷帳に岩戸村は記されるが、旧高旧領取調帳には村名は記載されず、江戸時代後期には南西の柿木かきのき村に吸収されたとみられる。

岩戸村
いわどむら

[現在地名]福部村岩戸

細川ほそがわ村の北、駟馳しち山西麓の塩見しおみ川河口東岸に位置する漁村。細川村の支村で江戸時代を通じて高付されなかった。岩戸浦とも称した。石見国または若狭国から出稼に来ていた漁師が定住したのに始まるという。長禄二年(一四五八)石見国の落人が当地に産土神として伊勢神明宮を勧請したと伝える。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」には細川村の竈数のくだりに「外ニ岩戸村二十四軒」とみえる。「因幡志」によれば家数四七、産物は若布で、「享保年中以後」別村としたという。

岩戸村
いわどむら

[現在地名]狛江市岩戸北いわどきた一―四丁目・岩戸南いわどみなみ一―四丁目

駒井こまい村の北にあり、東から北にかけては喜多見きたみ(現世田谷区)、西は和泉いずみ村。地形は平坦で、畑は村の北側に、水田は南方に広がる。駒井村から当村へ入り喜多見村へ通じる道があり、六郷ろくごう用水が村内を流れる(風土記稿)。河井系図(河井家文書)によれば、河井(河合・川合とも)弥七郎が当村の開発者であるという。寛永一〇年(一六三三)に近江彦根藩井伊氏領となり幕末に至る(公私世田谷年代記)

岩戸村
いわどむら

[現在地名]土佐市岩戸

東流する波介はげ川の南岸で出間いずま村の西方に位置する。「土佐州郡志」は「東限出間村、西限戸波村、南限浦之内、北限甲原村、東西一町余南北三町許」と記す。天正一七年(一五八九)の岩戸村地検帳には江良えら村・西岩戸にしいわど村・東岩戸村・本岩戸村の四小村がみえる。検地面積三九町六反余、うち田分三五町五反余、畠分二反余、屋敷四三筆で三町八反余。ほかに切畑三九代がある。大部分は在地の長宗我部氏家臣の給地で、ほかに直分・散田分・寺領とともに国貞名・次郎丸名・徳永名などの中世名がみられる。

岩戸村
いわとむら

[現在地名]市島町岩戸

三方を山に囲まれ南に谷が開く。西は森坂もりさか峠を越えて上田かみだ村字天神てんじん、北は岩戸峠を越えて天田あまた田野たの(現京都府福知山市)。江戸時代前期は吉見よしみ村に含まれた。元禄郷帳に村名がみえ高一七〇石余。旗本杉浦領(国立史料館本元禄郷帳)。同領は天和二年(一六八二)から(寛政重修諸家譜)。「丹波志」によると高一七〇石余のうち杉浦領一五六石余、残りは岩戸寺領、家数三五。大正八年(一九一九)まで硅石を産出した(鴨庄村誌)

岩戸村
いわとむら

[現在地名]岡崎市岩戸町

おと川に注ぐおと川が額田ぬかた郡境を流れる辺りの山麓の村落。北は中畑なかばた村・大井野おおいの村を経て大沼おおぬま道に通じ、南は秦梨はたなし村を経て岡崎城下に出る。乙川の両岸は豊かな農耕地で東は作手つくで(現南設楽郡作手村)に通じている。寛永一七年(一六四〇)の領主は天野重利、享保元年(一七一六)才熊さいくま村の領主板倉重治(鳥羽城主)で石高は八五石余。

「三河古今城塁誌」に岩戸村古城として「岩戸大膳泰親君討之、天野麦右衛門、同息麦右衛門、今尾州家ニ仕官」とある。

岩戸村
いわとむら

[現在地名]熊本市松尾町平山まつおまちひらやま 岩戸

金峰きんぼう(六六五メートル)の西斜面に位置し、東は面木おものぎ(現飽託郡河内町)、ほぼ西流する河内かわち川を挟み北は野出のいで(現河内町)、西は河内村(現河内町)、南は五町手永の平山村に接する。「国誌」に岩戸村とあるが、村高の記載がなく、近世中期以降平山村に含まれたと思われる。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳では、田方二町四反余・畠方七町余、分米六四石八斗余で、このほか坊主が二町二反九畝二四歩の田畠をもつ。同一三年の平山村の検地帳に岩戸分として記され、田方三町四反余・畠方四町六反余・山畑八反余、分米六八石五斗余で、寺が屋敷五畝・家一をもち、寺領が七反九畝二四歩あり、家三、男三・女二とある。

岩戸村
いわとむら

[現在地名]横須賀市岩戸一―五丁目

北に大矢部おおやべ村を控え、東方の佐原さわら村に開けるほかは、小高い丘に囲まれる。小田原衆所領役帳に蜷川九郎三郎「卅弐貫三百廿八文 岩戸」とある。永禄五年(一五六二)八月二日の北条氏康判物(県史三)によれば、梶原吉左衛門尉に対して三浦郡小坪こつぼ(現逗子市)とともに「卅弐貫三百廿八文 同郡内岩戸村」を与え、「海上儀一途仕置之、郡内静謐候様、可走廻」ことを命じている。

近世初頭は幕府直轄領だったと思われるが、延宝四年(一六七六)以前から旗本志木氏知行となり(「相模国三浦郡中石高帳」鈴木文書)、元禄一一年(一六九八)旗本本多氏の知行となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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