北市村(読み)きたいちむら

日本歴史地名大系 「北市村」の解説

北市村
きたいちむら

[現在地名]井波町北市

高瀬たかせ村の南西大門だいもん川左岸平地に立地。現山口市瑠璃光るりこう寺蔵の延徳二年(一四九〇)書写の「正法眼蔵」奥書に、永享二年(一四三〇)二月二一日「越中高瀬庄北市村於大林寺書之」とみえる。現愛知県東浦ひがしうら乾坤けんこん院蔵の「正法眼蔵」奥書にも、同年三月一〇日などに高瀬庄北市村大林だいりん寺で書写されたとある。応永二一年(一四一四)一〇月一〇日の武田信泰・宗清連署請文(東大寺文書)では高瀬庄地頭方の請人に大林寺坊主がなっていた。

北市村
きたいちむら

[現在地名]辰口町北市

徳久とくひさ村の北東に位置する。北は竹蔵たけぞう村。久蔵くぞ(くぞう)大橋おおはし馬場池ばばいけなどの地名が残り、もとは大村であったが、北方を西流する手取川の洪水で住民は四散集落も縮小したという(能美郡誌)。また地内西端に古屋敷ふるやしきという小字があり、同所がかつての集落跡であろうと考えられている。天文一五年(一五四六)六月一八日の西泉等公用算用状(石清水文書)に「山上郷北市」とみえ、五郎右衛門尉の家の普請祝三〇〇文が同一四年分の臨時支出として計上されている。

北市村
きたいちむら

[現在地名]小矢部市北一きたいち

棚田たなだ村の南西、五郎丸ごろまる川右岸に位置。蟹谷北市かんだきたいち村ともいう。元和五年(一六一九)の家高新帳に村名がみえ、役家数六、高木組に属する。同一〇年の北市村納米定書(北一区有文書)によれば、当村は加賀藩士横山山城守長知の知行地で、百姓相対年貢米を収納していた。正保郷帳では高六五五石余、田方四一町六反余・畑方一二町。承応四年(一六五五)の年貢皆済状(北一区有文書)によれば、高六五五石余・免四ツ八歩で、前年度分として年貢米三三〇石余と夫銀を横山氏に納めている。寛文一〇年(一六七〇)の村御印には蟹谷北市村とみえ、草高六八二石・免六ツ、小物成は山役五五匁(三箇国高物成帳)

北市村
きたいちむら

[現在地名]勝山市北市

北は下高島しもたかじま村、南は上高島村に接する勝山街道沿いの集落。村名は天文八年(一五三九)一〇月一八日の平泉寺賢聖院々領所々目録(平泉寺文書)にみえる。慶長五年(一六〇〇)から福井藩領、寛永元年(一六二四)勝山藩領、正保元年(一六四四)幕府領で福井藩預地、貞享三年(一六八六)幕府直轄地、元禄五年(一六九二)以降美濃国郡上藩領となった。正保郷帳によれば田方二五七石余・畠方五石余。

宝暦九年(一七五九)の下郷明細帳之写(島田家文書)によると、上田六町二畝余・中田四町九反余・下田一町七反余・永荒田一町九反余、上畑二町一反余・中畑七反余、居屋敷二畝余、田畑高計一七町五反余であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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