日本歴史地名大系 「有馬庄」の解説
有馬庄
ありまのしよう
中世、有家有間両村」の地頭職兼預所職などが開田遠員に安堵されているが、これは遠員が建武五年(一三三八)二月に敵の攻撃により証文を紛失していたためで、武藤資経らにその実否を確認したうえでの安堵であった(同年一二月二七日「足利直義下文案」蜷川家文書)。
〔有馬氏の勢力拡大〕
有馬氏は藤原純友を祖とし、幸澄の子の経澄が建保年間(一二一三―一九)に高来郡を領し、有馬に築城したとされている(寛政重修諸家譜)。平姓で島原半島南部を開いたと主張する有間朝澄は、早くから開発領主として存在し、肥前国御家人として勢力を伸ばしていたのであろう。宝治元年(一二四七)六月五日の平朝澄譲状案(深江文書)によれば、有馬朝澄が先祖相伝の所領である
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報