有馬庄(読み)ありまのしよう

日本歴史地名大系 「有馬庄」の解説

有馬庄
ありまのしよう

中世、高来たかく郡内に成立した庄園。正応元年(一二八八)一〇月二三日の豊前宇佐宮作料銭請取状(深江文書)に「高来東郷有馬庄」とみえ、庄内の深江ふかえ(現深江町)分の作料銭二貫八〇〇文を地頭代の実賢より受取っている。同五年八月一六日の肥前河上宮造営用途支配惣田数注文(河上神社文書)には庄園分として「高木有間庄八十丁」と記されている。貞和元年(一三四五)に相伝知行の「高来東郷有家有間両村」の地頭職兼預所職などが開田遠員に安堵されているが、これは遠員が建武五年(一三三八)二月に敵の攻撃により証文を紛失していたためで、武藤資経らにその実否を確認したうえでの安堵であった(同年一二月二七日「足利直義下文案」蜷川家文書)

〔有馬氏の勢力拡大〕

有馬氏は藤原純友を祖とし、幸澄の子の経澄が建保年間(一二一三―一九)高来郡を領し、有馬に築城したとされている(寛政重修諸家譜)。平姓で島原半島南部を開いたと主張する有間朝澄は、早くから開発領主として存在し、肥前国御家人として勢力を伸ばしていたのであろう。宝治元年(一二四七)六月五日の平朝澄譲状案(深江文書)によれば、有馬朝澄が先祖相伝の所領である高来東たかくとう郷内深江浦の地頭職を深江入道蓮忍に譲っており、文永一〇年(一二七三)牧地・馬・牛などについての相論を六波羅探題が裁許するなかでも、深江村のうちに朝澄の開発田があった(同年六月一五日か「六波羅御教書」同文書)。建武新政府の成立を契機に「有間彦五郎入道蓮恵」は深江村の奪回を図って安富泰重を相手に提訴を行うが、建武元年「旧領事」として却下されている(同年八月二九日「雑訴決断所下文」同文書)。南北朝期、当地に日野江ひのえ城を築き、おもに南朝方として活躍した。正平八年(一三五三)二月の筑前針摺はりすり(現福岡県筑紫野市)での合戦で一色道猷菊池武光に大敗したため南朝勢力が優勢となり、翌九年八月には菊池武澄が島原半島に軍勢を進めると有馬澄明は馳せ参じ(同年九月一二日「有馬澄明軍忠状」有馬文書)、同一〇年八月頃からの征西将軍宮と菊池武光による道猷勢力追討の転戦にも参陣している(同年一一月一八日「有馬澄明軍忠状案」同文書)。同一三年有馬直澄は重代相伝の私領とする高来郡賀津佐かづさ(現加津佐町)内の鉢窪はちのくぼ名・部窪名にある伽藍敷地や屋敷・山野を肥後の広福こうふく(現熊本県玉名市)の開基である大智に寄進し、また住持職以下の大小の公私検断などについて、地頭の口入れを停止させることとしている(同年六月二三日「有馬直澄寄進状案」広福寺文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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