日野江城跡(読み)ひのえじようあと

日本歴史地名大系 「日野江城跡」の解説

日野江城跡
ひのえじようあと

[現在地名]北有馬町谷川名

しろ(七八メートル)に築かれた中世の城の跡。国指定史跡。史料上は火江城などとも記され、また有馬城・有間城とも称される。

〔有馬氏歴代〕

建保年間(一二一三―一九)に有馬氏(はじめ有間氏とも)初代の経澄が築城したと伝えるが(有馬家譜)、城館の形式から南北朝期の築城ともいう。有馬貴純の時代には島原半島をほぼ支配下に置き、文明六年(一四七四)大村純伊を攻撃してこれを追放し、明応二年(一四九三)には平戸の松浦弘定を白狐山びやつこざん(現平戸市)に攻めて敗走させ、「鎮西要略」によれば、少弐政資により勲功の賞として肥前藤津ふじつ郡と白石しろいし(現佐賀県白石町)長島ながしま(現同県武雄市)を給付され、「高来郡司、有馬城主」と記される。「中頃より屋形の号を蒙る」というのも(三州軍鑑)、この当時のことであろう。同三年貴純の没後は尚鑑・晴純(賢純とも)・義貞(義直)・義純・晴信(鎮純・鎮貴・正純)と継承されていくが、晴純の時代には「西に日野江城あり、東に原城あり、其間海上二十丁余を橋を渡して往来し」ていたといわれるほどで、「近き頃迄海中より古き橋杭出し事あり」という(国乗遺文)。義貞の時代には龍造寺隆信により後退を余儀なくされ、元亀元年(一五七〇)義純に家督を譲ったものの、翌年義純は死亡したため次男の晴信を立てている。

天正五年(一五七七)一〇月龍造寺隆信が高来たかく郡に入り、同六年には有馬晴信方の安富純治・島原純豊らがその軍門に下ったので、晴信は妹を隆信の長子政家の妻とすることで和睦、有馬氏の領内は一時数ヵ村を除いて龍造寺氏の勢力下に置かれたという。一五八〇年イエズス会の巡察師ヴァリニャーノは要請を受けて有馬の城に入り、聖祭を行い、晴信以下主立った家臣らに洗礼を授けるとともに、有馬氏の諸城に糧食や金銭を送り、くち(現口之津町)に停泊していたポルトガル船から多量の鉛や火薬を買入れて補給し、城の防備を固めさせた(ロレンソ・メシア書簡)。有馬氏は龍造寺氏の勢力拡張をよしとしない島津氏に援助を求めた。島津氏は天正一〇年一一月に「有馬殿頃御味方ニ被参候」、それ以降有馬の情勢を調査し、同月二〇日には有馬に援軍を派遣するが、城攻め以外の用兵を禁じている(「上井覚兼日記」同年一一月七日・同月二五日条など)。同年一二月二日島津義弘は有馬に在陣する島津勢に対して速やかに戦果を収めて肥後隈本くまもと(熊本)に帰陣するよう命じている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「日野江城跡」の解説

ひのえじょうあと【日野江城跡】


長崎県南島原市北有馬町にある城跡。島原半島の東南部、有馬川河口に面した火山性扇状地の末端、標高78m付近を本丸とする戦国大名有馬氏の居城跡。日本キリスト教史初期の中心地として重要なことから、1982年(昭和57)に国の史跡に指定された。有馬氏は、建保年間(1213~19年)ごろ、肥前国有馬荘の地頭に補任(ぶにん)され、その後戦国大名として頭角を現し、キリシタン大名として著名な晴信のころには肥前の大半を領有するまでにいたったが、当時の居城である日野江城がいつごろ築かれたものかは不明。現存する城は戦国時代の山城で、本丸を中心に、多くの曲輪(くるわ)が階段状に配されている。大手は東側と推定され、本丸の下まで一挙に上がる100m以上におよぶ階段遺構が発掘され、中国陶磁器や金箔瓦、土師器(はじき)なども出土した。有馬氏の後に入封した松倉重政島原城を築く際、日野江城の石垣を搬出したため城は廃され、今日にいたっている。島原鉄道島原駅から島鉄バス「日野江城入口」下車、徒歩約5分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

事典・日本の観光資源 「日野江城跡」の解説

日野江城跡

(長崎県南島原市)
長崎県新観光百選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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