木本御厨(読み)このもとのみくりや

日本歴史地名大系 「木本御厨」の解説

木本御厨
このもとのみくりや

志摩国にあった伊勢神宮(内宮)領の御厨(神鳳鈔)。現海山町の相賀あいが引本浦ひきもとうら小山浦おやまうら一帯および銚子ちようし川流域の山地を含む地域に比定される。成立の年代・事情はともに不明。下司(荘司)職を伝領した木本氏の末裔荘司家に、平安時代から近世に至る古文書(荘司文書)が伝来。原本は所在不明だが、荘司文書は「紀伊続風土記」や明治初年の「南狩遺文」「志摩国旧地考」に所収され、また利用されてきた。写は多く作成され東京大学史料編纂所の影写本や荘司家の御綸旨御下文写・旧記留などが残る。神宮文庫には明治五年(一八七二)に当主の荘司貞信の筆写にかかる最も良質の写本息長家古文書(旧薗田敬神主蔵本)が残り(五一通所収)、また御巫清直旧蔵本の退蔵文庫古文書に、二五通の木本御厨関係文書として荘司文書のほぼ半数が収められて、荘司文書の全貌はこれらによってうかがえる。御巫清直旧蔵文書は譲状などを中心とする私文書類であるが、鎌倉時代後期からの原本を含み、案文も筆跡・紙質や墨色、さらに裏花押の形態などからみれば、南北朝時代にさかのぼるものである。清直が荘司貞信より依頼を受けて木本御厨庄司世嗣攷証(神宮文庫蔵)を著したというので、その折古文書が御巫氏に預けられ、荘司文書の一部が移ったのであろうか。以下の引用史料は、荘司文書の場合神宮文庫蔵の荘司文書および同写本による。

木本御厨は荘司文書によれば、寛治八年(一〇九四)の前佐渡守大中臣輔成下文に初見し、神宮祭主大中臣輔経三男輔成は木本御厨検校の息長宮貞に御厨内杣の山手を沙汰せしめた。この時すでに、検校・杣山預の荘官職がみえるので当御厨の成立はさらにさかのぼると考えられる。寛治年間以前に所見のある神宮領はわずか一三ヵ所であるから、年代不明にしてもきわめて早い時期に成立した神領といえよう。

輔成の父輔経は延久三年(一〇七一)頃の祭主、祖父輔頼も長保三年(一〇〇一)より三八年間も岩出いわで(現度会郡玉城町)に居住し、ともに近隣の山野を含む私領を開発して神宮領とし、自ら領主となっていたことが知られるから、輔成が開発した木本近辺の私領を神宮に寄進し、自ら領家職を保有したと推測できる。天治二年(一一二五)山城守大中臣某によって在地の息長常貞は当御厨検校職に補任され、嘉応三年(一一七一)三月、息長恒吉は杣出口榑(木材)を沙汰すべく領家の下文を受けた。恒吉は治承二年(一一七八)五月、初めて木本御厨下司職に任じられ、寿永二年(一一八三)二月、清貞も下司に任じられた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の木本御厨の言及

【海山[町]】より

…古代は志摩国英虞(あご)郡に属した。木本御厨(このもとみくりや),小山御薗など伊勢神宮領があり,なかでも木本御厨は神宮祭主大中臣氏の一族が私領を寄進したもので,南北朝期には下司木本氏は南朝方として働いている。近世には紀伊国牟婁郡に含まれ,紀州藩領であった。…

※「木本御厨」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android