朝日日本歴史人物事典 「北白河院」の解説
北白河院
生年:承安3(1173)
鎌倉前期の女院。後高倉上皇妃。後堀河天皇の母。権中納言持明院基家の娘。名は陳子。基家が後高倉の乳父であった関係から,その妻となった。承久3(1221)年7月,後鳥羽上皇が討幕の兵を挙げて敗れると(承久の乱),幕府の力で末子後堀河が天皇に推戴され後高倉院政が成立したが,それを支えたのは北白河院の甥の権臣西園寺公経とみられる。翌貞応1(1222)年4月,従三位に叙せられて准三后となり,7月院号宣下。翌年5月,後高倉が死去。その後も国母として朝廷内で重要な位置にあった。その側近は実家の持明院家や,甥の公経の西園寺家,乳母の平繁雅の一家,執事の四条家および後高倉の近臣の藤原光俊らだが,彼らはまた後堀河の有力な側近でもあった。また娘の安嘉門院は膨大な荘園群である八条院領を父院から相続したが,それを実際に管領したのは北白河院だったと思われる。
(秋山喜代子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報