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宜秋門院 ぎしゅうもんいん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

宜秋門院
ぎしゅうもんいん

[生]承安4(1174).京都
[没]暦仁1(1238).12.28. 京都
鎌倉時代,後島羽天皇の中宮。名は任子 (たえこ) 。九条兼実の娘。母は藤原兼子。建久1 (1190) 年入内して女御となり,同年立后宣下,中宮職に付され昇子内親王 (春華門院) を産んだ。建久7 (1196) 年内裏を退き,正治2 (1200) 年院号宣下を受けた。翌年出家,のち年官年爵を辞した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

宜秋門院 ぎしゅうもんいん

1173-1239* 鎌倉時代,後鳥羽(ごとば)天皇の中宮(ちゅうぐう)。
承安(じょうあん)3年9月23日生まれ。九条兼実(かねざね)の娘。母は藤原兼子文治(ぶんじ)6年入内(じゅだい)。建久6年昇子内親王(のちの春華門院)を生む。7年父が関白の座を追われたため,ともに内裏を退出。正治(しょうじ)2年院号をうける。建仁(けんにん)元年法然のもとで出家した。暦仁(りゃくにん)元年12月28日死去。66歳。名は任子。法名は清浄智。

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朝日日本歴史人物事典の解説

宜秋門院

没年:暦仁1.12.28(1239.2.3)
生年:承安3(1173)
鎌倉時代の後鳥羽天皇の中宮。名は任子。父は関白九条兼実,母は藤原季行の娘兼子。文治5(1189)年従三位に叙され,翌建久1(1190)年入内し中宮となる。父兼実に愛され皇子出産を期待されるが,6年皇女(春華門院)を生む。7年兼実の罷免にともない内裏を退出,両親,兄良経と共に九条に住む。正治2(1200)年院号宣下。建仁1(1201)年法然を戒師として出家,法名清浄智。建暦2(1212)年院号および年官年爵を辞す。元久1(1204)年,兼実によって最勝金剛院領等荘園約50所の女院への譲渡,良経が経営に協力すること,および一期ののちは良経の子道家が相続することが定められた。『明月記』に「賢貞の御本性,庭訓を忘れしめずおわします」との評がある。

(今村みゑ子)

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大辞林 第三版の解説

ぎしゅうもんいん【宜秋門院】

1173~1238) 後鳥羽天皇の中宮。名は任子たえこ。九条兼実の女むすめ。1200年院号宣下。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

宜秋門院
ぎしゅうもんいん
(1173―1238)

後鳥羽(ごとば)天皇の中宮(ちゅうぐう)。名は任子(じんし)。父は九条兼実(くじょうかねざね)、母は藤原季行(すえゆき)の女(むすめ)兼子。承安(しょうあん)3年9月23日生まれ。1189年(文治5)11月15日従三位(じゅさんみ)に叙せられ、90年正月11日入内(じゅだい)。同月16日女御(にょうご)の宣旨を受け、4月26日立后され中宮となる。95年8月13日昇子内親王(後の春華門院(しゅんかもんいん))を生む。翌年11月兼実の失脚により宮を退出した。1200年(正治2)6月28日院号を受け、01年(建仁1)10月17日落飾。04年(元久1)4月には兼実より最勝金剛院(さいしょうこんごういん)の寺地、寺領荘園(しょうえん)など女院庁(にょいんのちょう)領として荘園35か所ほかを譲与された。12年(建暦2)正月院号および年給年爵を辞し、暦仁(りゃくにん)元年12月28日死去した。女院の死後所領は九条道家(みちいえ)へと伝えられた。[権平慶子]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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