宜秋門院(読み)ギシュウモンイン

精選版 日本国語大辞典 「宜秋門院」の意味・読み・例文・類語

ぎしゅう‐もんいんギシウモンヰン【宜秋門院】

  1. 鳥羽天皇の中宮。関白太政大臣九条兼実の娘。名は任子(たえこ)春華門院昇子内親王を産む。父の失脚後、院号宣下(せんげ)を受けたが、のちに出家。法名清浄智。承安三~暦仁元年(一一七三‐一二三八

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「宜秋門院」の意味・わかりやすい解説

宜秋門院
ぎしゅうもんいん
(1173―1238)

鳥羽(ごとば)天皇の中宮(ちゅうぐう)。名は任子(じんし)。父は九条兼実(くじょうかねざね)、母は藤原季行(すえゆき)の女(むすめ)兼子。承安(しょうあん)3年9月23日生まれ。1189年(文治5)11月15日従三位(じゅさんみ)に叙せられ、90年正月11日入内(じゅだい)。同月16日女御(にょうご)の宣旨を受け、4月26日立后され中宮となる。95年8月13日昇子内親王(後の春華門院(しゅんかもんいん))を生む。翌年11月兼実の失脚により宮を退出した。1200年(正治2)6月28日院号を受け、01年(建仁1)10月17日落飾。04年(元久1)4月には兼実より最勝金剛院(さいしょうこんごういん)の寺地寺領荘園(しょうえん)など女院庁(にょいんのちょう)領として荘園35か所ほかを譲与された。12年(建暦2)正月院号および年給年爵を辞し、暦仁(りゃくにん)元年12月28日死去した。女院の死後所領は九条道家(みちいえ)へと伝えられた。

[権平慶子]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宜秋門院」の解説

宜秋門院 ぎしゅうもんいん

1173-1239* 鎌倉時代,後鳥羽(ごとば)天皇の中宮(ちゅうぐう)。
承安(じょうあん)3年9月23日生まれ。九条兼実(かねざね)の娘。母は藤原兼子。文治(ぶんじ)6年入内(じゅだい)。建久6年昇子内親王(のちの春華門院)を生む。7年父が関白の座を追われたため,ともに内裏を退出。正治(しょうじ)2年院号をうける。建仁(けんにん)元年法然のもとで出家した。暦仁(りゃくにん)元年12月28日死去。66歳。名は任子。法名は清浄智。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宜秋門院」の意味・わかりやすい解説

宜秋門院
ぎしゅうもんいん

[生]承安4(1174).京都
[没]暦仁1(1238).12.28. 京都
鎌倉時代,後島羽天皇の中宮。名は任子 (たえこ) 。九条兼実の娘。母は藤原兼子。建久1 (1190) 年入内して女御となり,同年立后宣下,中宮職に付され昇子内親王 (春華門院) を産んだ。建久7 (1196) 年内裏を退き,正治2 (1200) 年院号宣下を受けた。翌年出家,のち年官年爵を辞した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

貨幣 (名目) 賃金額を消費者物価指数でデフレートしたもので,基準時に比較した賃金の購買力を計測するために用いられる。こうしたとらえ方は,名目賃金の上昇が物価の上昇によって実質的には減価させられている...

実質賃金の用語解説を読む