北窪村(読み)きたくぼむら

日本歴史地名大系 「北窪村」の解説

北窪村
きたくぼむら

[現在地名]猪苗代町 新堀向しんぼりむかい窪南くぼみなみ窪田くぼた村東むらひがし沼田ぬまた五百苅ごひやくがり出雲壇いずもだん小黒川おぐろがわ太田おおた太田西おおたにし二丁田にちようだ御三壇ごさんだんなど

小黒川を挟んで猪苗代城下あら町・もと町の東にあり、南流する長瀬ながせ川の西岸を占める。川東組に属した。北西見禰みね村、南は今和泉いまいずみ村。古くは窪村と称したといい、文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では猪苗代郡のうちに窪とみえ、高四二一石余。寛文六年(一六六六)の「会津風土記」に村名が載る。享保三年(一七一八)には高一二四石余、家教一六、男二五・女二七、馬七。天明六年(一七八六)にもほぼ同高で、家数一〇、男二一・女二一、馬三(「留帳」小林家文書)


北窪村
きたくぼむら

[現在地名]松山町金谷かなや 北窪

東は黒江くろえ村、南西金谷村に接する。南半が丘陵末端部で北半は水田地帯の小村。寛永七年(一六三〇)の茂庭周防良元宛知行関係文書(茂庭家文書)に「松山之内北窪村 一、七貫五百五拾七文 本地。一、壱貫百五拾三文 新田起目」とある。正保郷帳に田一五貫九二五文・畑七三七文とあり、ほかに同所新田二貫五七一文があり、水損と注記される。松山茂庭氏の一円知行地で、元禄一五年(一七〇二)には同氏の侍屋敷二軒があった(「松山茂庭知行入会」茂庭家文書)


北窪村
きたのくぼむら

[現在地名]小田原市北ノ窪

北を流れる分沢ぶんざわ川が足柄上あしがらかみ郡との郡境をなし、西・南は府川ふかわ村、東は飯田岡いいだおか村と接する。甲州道が村東を通る。近世は小田原藩領。正保国絵図に「北久保」とある。寛永初期の村高一〇二石余、家数一五、うち名主二・本百姓五・わき者八(小田原領西筋村々高ノ帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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