金谷村(読み)かなやむら

日本歴史地名大系 「金谷村」の解説

金谷村
かなやむら

[現在地名]大網白里町金谷郷かなやごう季美の森南きみのもりみなみ、東金市季美の森東きみのもりひがし

大網村の北西方に位置する。元禄郷帳などには「金谷村」とみえ、長谷ながさく真行しんぎよう小沼こぬまみようを含めた中世以来の金谷の中心であったと考えられる。永禄八年(一五六五)二月一八日の酒井胤治書状(河田文書)によると、土気とけ(現千葉市緑区)城主酒井胤治軍を小田原北条方の東金とうがね城主酒井敏辰が金谷口から攻め込んだという。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に金谷村とみえ、高一千八六三石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では金谷組に属し、旗本大久保領五〇〇石。元禄郷帳では高五三五石余。

金谷村
かなやむら

[現在地名]富津市金谷

萩生はぎゆう村の南にある広域の村で、西部は浦賀水道に臨み、金谷川など三筋の川が注ぐ。房総往還が通る。南の安房国境にのこぎり山がみえ、集落は海岸部の金谷・芝崎しばさき島戸倉しまとぐら、内陸の大沢おおさわ富貴ふうきなどの集落がある。金草かねくさなどの地名が残る。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高七六〇石。正保国絵図では金谷浜かなやはま町とあり、高四五二石で、江戸まで海上一八里、相模走水はしりみず番所(現神奈川県横須賀市)まで四里半と記載されている。寛文四年(一六六四)の松平重利領知目録(寛文朱印留)に金谷村とみえ、下野皆川藩領。元禄郷帳では金谷村として高五二五石余で、幕末までほぼ同様。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数二三八で、旗本白須領。天保一三年(一八四二)からの支配領主の変遷は売津うるづ村と同様。

延享三年(一七四六)村明細帳(鈴木家文書、以下断りのない限り同文書)によれば田二八町一反余・畑四七町三反余、御林四・御萱立野一で、定納分に萱銭永一貫八九〇文・山役永五四〇文。

金谷村
かなやむら

[現在地名]関金町関金宿せきがねしゆく

小鴨おがも川とその支流矢送やおくり川が合流する地点の西に位置する。北は小鴨川を挟んで安歩あぶ村と大鳥居おおとりい村。金屋とも記した(在方諸事控)。拝領高は二一二石余、本免は五ツ九分。藪役銀二匁三分・草札役米六斗余を課されており(藩史)、享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば高二三〇石、竈数二〇余。幕末の六郡郷村生高竈付では生高二八五石余、竈数二四。当村西部の水田地帯の用水路である佐野さの井手は松河原まつがわら村の臼井うすい口で小鴨川から取水するもので、宝永元年(一七〇四)から五年をかけて一千三五〇間にわたる開削工事の末にできたという。

金谷村
かなやむら

[現在地名]中津市中津 金谷本町かなやほんちよう金谷南かなやみなみちよう金谷中かなやなかちよう金谷東堀端かなやひがしほりばた金谷西堀端かなやにしほりばた金谷古金谷かなやふるがなや金谷山かなややまかみ金谷森かなやもりちよう金谷上かなやかみちよう金谷西かなやにしちよう

中津城下の南、外堀の外側にある。金屋とも記される。「中津称呼考」によれば、中津城の外堀を築造するにあたり、寛永年間(一六二四―四四)細川忠興大家おおえ川を塞ぎ、南は下宮永しもみやなが村の恩塚おんづかから、北は当村を経て外馬場そとばばに終わる総長約一キロに達する長堤を築いたときに始まるという。

金谷村
かなやむら

[現在地名]上山市金谷・新金谷しんかなや四ッ谷よっや二丁目・弁天べんてん一―二丁目

川と蔵王川合流点南岸にあり、南西は小泉こいずみ村。北にも金谷村(下金谷村)があるため、当村は上金谷村とよばれた。蔵王山登拝裏口参道の上山口にあたり、同口の別当は本山派修験安楽あんらく院。寿永元年(一一八二)の蔵王噴火で宮社が破壊され、寛元元年(一二四三)廻立まつたてに口の宮が建立されたと伝える。元亀年間(一五七〇―七三)坊平ぼうだいらにお清水しず小屋を建て、登拝者の精進潔斎・祈祷の宿泊所とした。

金谷村
かなやむら

[現在地名]小高町金谷

小高川の上流部に位置し、東は大田和おおたわ村・飯崎はんさき村、北は大谷おおたに村。同川を遡上し、字小畑おはたけから当村西端の八丈石はちじようせき(五〇七・一メートル)北麓の金谷峠を越え、標葉しねは昼曾根ひるそね(現浪江町)に通じる道の金谷口には検断所が設けられ、相馬藩領と中通りを結ぶ重要な道であった。天保郷帳では「古者 金谷村・釘野新田弐ケ村」と注記され、釘野くぎの新田は現在の字北釘野・字南釘野・字下釘野付近に比定される。

正安二年(一三〇〇)四月二三日の関東下知状(相馬文書)に相馬胤村の後家尼の遺領として「盤崎村内釘野」がみえるが、これは前記の釘野新田付近をさすとみられ、中世における当地は盤崎はんさき(近世の飯崎村)の村域にあったと考えられる。

金谷村
かなやむら

[現在地名]新見市金谷

西方にしがた村の南東に位置。東端を高梁たかはし川が南流し、南東端で支流西にし川を合せる。川湊集落である川之瀬かわのせのほか金附かなつき牛丸うしまる山迫やまざこ・金谷の集落がある。東城とうじよう往来・吹屋ふきや往来が通る交通の要衝。中世は新見庄に含まれた。文永八年(一二七一)の新見庄領家方里村分正検田取帳案・同正検畠取帳案(東寺百合文書)に由世里・牛丸など当地の地名がみえる。

寛永備中国絵図に金屋村とみえ、高一六九石余は山崎家治先知、二三石余は松山藩領。

金谷村
かなやむら

[現在地名]和歌山市金谷

那賀なが郡に属し、吐前はんざき村の東南にある。南は鳩羽はとば(二六五・四メートル)じようヶ峯(二五五・四メートル)に挟まれる金谷峠に至る。村は五集落に分れ、南の山麓に金屋かなや、その東に明楽あきら、西に平野ひらの、北にかみした、その東に上野うえのがある。中世は金峯山領小倉おぐら庄に含まれたと考えられる。

慶長検地高目録によると高一千一一七石余、小物成一斗二升五合。小倉組に属し、安政二年(一八五五)の御毛見町分差出帳(藤田家蔵)によれば家数九七で、地士一・庄屋一・肝煎二・本役四四・半役二一・下役二二・無役四・歩行二、人口男一九五・女一八八、牛四九。作間稼は「男ハ柴草苅、女ハもめん仕候」とある。田方五四町余、うち稲四七町余・木綿四反余。

金谷村
かなやむら

[現在地名]韮山町韮山金谷にらやまかなや

韮山の江川氏屋敷の東に隣接し、大和宇野うの(現奈良県五條市)から江川氏とともに移住した者(金谷十三軒とよぶ)の末裔が居住するという。検地は天正一八年(一五九〇)・文禄三年(一五九四)・慶長一二年(一六〇七)に行われており、各年代の検地帳写(大原家文書)が残る。このうち天正一八年一〇月二六日の金谷村御縄打水帳写によると、田畑屋敷二〇町二反余の分米二〇九石余、うち屋敷を除く九町三反余は内金谷うちかなや村分、残りの九町一反余の名請地一六筆はすべて「江川分」となっており、これはのちに分村する内中うちなか(外金谷とよばれていた)にあたる(韮山町史)

金谷村
かなやむら

[現在地名]長柄町金谷

はり村の南西にあり、一宮いちのみや川が東流する。明応九年(一五〇〇)一〇月一日の弘明ぐみよう(現神奈川県横浜市南区)所蔵の鰐口銘に上総国一宮庄内金屋とみえ、当地に比定されるが、この一宮は二宮にのみやの誤記の可能性もある。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二五四石。慶安三年(一六五〇)に検地が行われている(長柄町役場文書)。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数四一、旗本大久保領。幕末も同様。天保郷帳では高二九〇石余。刑部おさかべ村内の南沢なんざわで一宮川の支流を堰止め、一〇町ほどの手樋を掘って灌漑用水に引いていたが、村内一三町歩は旱損場であるためこの南沢堰用水の維持には腐心しており、建替え・修繕には文化四年(一八〇七)・同一〇年・文政七年(一八二四)と費用をかけ、刑部村には米七升余と銭二〇〇文を堰年貢として納めていた(「建替仕用帳」加藤家文書など)

金谷村
かなだにむら

[現在地名]吉永町金谷

金剛こんごう川が西流する谷間にある。西は田倉たくら村、東は野谷のだに(現備前市)、南は八木山やきやま(現同上)、北は兵部ひようぶ峠を経て小板屋こいたや村。慶長一八年(一六一三)の和気郡御勘定帳に村名がみえ、物成一一一石余、夫米六石余。寛永備前国絵図によれば高二一四石余。「備陽記」では田畑一五町七反余、家数四一・人数二四四。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば直高三三四石余で、三〇〇石が家臣四名の給地、残りが蔵入。二口高二五五石余・残高二四二石余、反別田七町九反余・畑七町六反余、家数四三、いずれも当村の正光しようこう(現高野山真言宗)檀家、人数一五五、牛二〇、猟師鉄砲二、宮一(金子大明神宮)、育麦蔵一、石橋二・土橋三、池一、樋一一、山畝四二町余。

金谷村
かなやむら

[現在地名]松山町金谷

東は北窪きたくぼ黒江くろえ両村、西は千石せんごく村、南は広長ひろなが(現鹿島台町)、北は須摩屋すまや村。南部が丘陵地で北部が低地となる。寛永七年(一六三〇)の茂庭周防良元宛知行関係文書(茂庭家文書)に「松山之内金谷村 一、弐拾弐貫七百卅五文 本地。一、壱貫六百弐拾六文 新田起目」とある。同一七年の検地帳(同文書)によれば田四〇町三反余・畑五町三反余で田畑合計五三貫余、名請人は百姓一二人(うち新百姓一)、茂庭氏の家中侍一九人、同足軽七人。百姓持高合計は四〇貫余、うち一人の持高最高が田畑合計三町五反余で四貫余である。

金谷村
かなやむら

[現在地名]鶴岡市金谷

母狩ほかり山の東麓、山谷やまや村の南東にある。地名は金屋とも記され、古くより金工が居住したことによるとする所伝もあり、村内の旧家には刀剣や古鏡などが所蔵される。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に金屋村とあり、高二八三石余。寛永元年庄内高辻帳でも金屋村とあり、高一七六石余と激減しているが、理由は不明。正保郷帳では田一七一石余・畑五石、松山がある。弍郡詳記では免六ツ一分、家数一一。山林をめぐる争いが度々繰返され、なかでも青竜寺組九ヵ村入会の山(母狩山大沢のうち大木)丸岡まるおか(現東田川郡櫛引町)の者が天沢てんたく(現同上)普請の用材として杉三本・雑木二本を無断で刈り取ったことに端を発した寛政一〇年(一七九八)の争論は、郡奉行に訴えが出され、丸岡村が九ヵ村側に詫状を出すことで決着した(寛政一二年「九ヵ村入会母狩山青木一件雑用書上横折」黄金区有文書)

金谷村
かなやむら

[現在地名]掛川市上内田かみうちだ

城東きとう郡に所属。上小笠かみおがさ川の上流にあり、西は和田わだ村、南は子隣ことなり村、中内田村(現菊川町)秋葉街道が通る。文治年間(一一八五―九〇)栗田治太夫義次が京都より当地に移住し田畑を開いたという(ふるさと上内田)。正保郷帳に村名がみえ、田方一三五石余・畑方三二石余、山札一石余、旗本井上領(幕末に至る)。元禄一〇年(一六九七)には日坂につさか宿の大助郷で勤高一六八石(掛川市史)

金谷村
かなやむら

[現在地名]久美浜町字金谷

川上谷かわかみだに川上流部、西から東に傾斜した谷の東山麓に川上谷川が流れ、川の東側を東金谷ひがしがなや、川の西側を中島なかじま、西側山麓を西金谷という。高い西金谷には上流から水路をつくっている。東金谷から隣接した東畑ひがしばたを通って福知山城下(現福知山市)に通じる街道があった。

中世末の丹後国御檀家帳に「川かみのかなや 家百軒斗 一城の主也 野村殿」とあり、ほか一名の名が記される。村の西の谷から中島の間に横枕よこまくらという小字が残る。宗雲寺過去帳に「山べの横まくら」との記載があることから、丹後国御檀家帳に「川かみの屋まへ 家五拾軒斗」とあるのは金谷村の地内にあたると思われる(熊野郡誌)

金谷村
かなやむら

[現在地名]米沢市万世町金谷ばんせいちようかなや

片子かたこ村の東に位置し、羽黒はぐろ川の東岸低平地に立地。金屋とも書かれた。中世には屋代やしろ庄のうち。天文二二年(一五五三)晴宗公采地下賜録によると、「や代かなやの内、助三郎在け」が山路三郎衛門に与えられている。近世初期の邑鑑には村名がみえず、堂森どうもり村に含まれていたと考えられる。蒲生氏高目録帳では上長井のうちで「堂森・金屋」として村高四一八石余、村柄は上。寛永八年分限帳によると屋代郷のうちで、金屋は寺嶋喜左衛門(二〇〇石)ほか三名に分給されていた。正保郷帳では田二三三石余・畑八五石余、水損・旱損地があった。

金谷村
かなやむら

[現在地名]豊田市金谷町

挙母町の南。「信長公記」永禄四年(一五六一)の項に「是より高橋郡御働き。端々放火し推詰麦苗薙せられ、爰にても矢戦あり。加治屋村焼払ひ、野陣を懸けられ云々」とあり、信長の手により焼かれた「加治屋村」は、金谷村の前身であろう。天正二〇年(一五九二)検地奉行吉田修理亮による検地史料(明治十年公有地原由取調帳)に、

<資料は省略されています>

とある。

金谷村
かねやむら

[現在地名]横須賀市金谷一―三丁目・衣笠栄きぬがささかえ町三―四丁目

平作ひらさく川の北、南は上・下平作村、北は不入斗いりやまず村と接する。元禄国絵図には「公郷村枝郷金谷村」とあり、公郷くごう村からの分村である。天保初期の家数三〇(風土記稿)。嘉永七年(一八五四)の村明細帳(福本文書)に、高一六四石九斗余、反別二一町五反余、家数三〇、人数一五七(男八二・女七五)、牛一六、馬二、東西一七町余、南北四町余とある。

金谷村
かなやむら

[現在地名]柿崎町金谷

南東は谷内やち村、南西は法音寺ほうおんじ村と接し、南に米山よねやま川が流れる。天正九年(一五八一)一二月二六日付の上杉景勝知行宛行状写(狩野文書)に「長井分之内、森下・八崎・金屋村」とみえ、景勝が狩野秀治に軍役を免除した上で給与した金屋村は当地のことと思われる。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「佐野伝三分柿崎分金屋村 中」とみえ、本納六六石五斗七升九合・縄高九八石二斗五升六合、家八軒・三四人とある。

金谷村
かなだにむら

[現在地名]鯖江市金谷町

しろ山の東南麓に位置し、南は寺中じちゆう村に接する。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では川田かわだ庄に含まれる。正保郷帳に村名がみえ、田方一五六石余・畠方一一五石余。初め福井藩領、貞享三年(一六八六)幕府領、享保五年(一七二〇)より鯖江藩領。同六年の庄境組三三ケ村明細帳(市橋家蔵)によれば、中田九町六反余、上畑二町九反余・中畑二町七反余・下畑三町八反余、屋敷四反余。

金谷村
かなやむら

[現在地名]水戸市金谷町

水戸城下の西に位置し、大塚おおつか村の南にある。地勢は平坦で村の東南を桜川が東流する。中世は江戸氏・佐竹氏の支配を経て、江戸時代には宍戸藩領であった。「新編常陸国誌」の金谷村の項に「和光院過去帳、天正二年条ニ、カナヤ太郎右衛門アリ、此地ノ人ナルベシ」とあり、元禄郷帳に「金谷村」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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