黒江村(読み)くろえむら

日本歴史地名大系 「黒江村」の解説

黒江村
くろえむら

[現在地名]海南市黒江

船尾ふのお浦の東北に位置し、東南は日方ひかた浦、東は岡田おかだ村に接する。西北紀三井寺きみいでら(現和歌山市)から入った近世熊野街道が、船尾山としろヶ峰の間の峠である黒江坂を越す辺りの街道沿いから、黒江湾に面する港に集落がある。名草なくさ郡に属した。

応永六年(一三九九)一一月一日写の日前国懸ひのくまくにかかす神社(現和歌山市)の「神事記」(紀家蔵)に「黒江郷三葛郷役」として「調庸御祭黒江蠣 三葛蛤」とあり、祭礼に浦役が賦課されていたことが知られる。文明一八年(一四八六)三月紀伊国を行化した本願寺蓮如は、その紀行「蓮如上人紀伊国紀行」に「紀三井寺ヘマイリ、法施礼拝ヲイタシテ下向道ニオモムキ、ユラリユラリトヤスラヒ行クホドニ黒江浜トイフ所ヘイデニケリ、ソレヨリ船ニノリテ(冷)水ノ浦ヲナカメ」と近世に熊野街道として利用される道を通った様子を記している。


黒江村
くろえむら

[現在地名]松山町金谷かなや 黒江

東は長尾ながお村、西は北窪きたくぼ村、北は須摩屋すまや村、南は広長ひろなが(現鹿島台町)。南から延びる丘陵部の谷田地帯で、北部が低地千石せんごく村の松山宿から宮城郡高城たかぎ本郷(現松島町)に通ずる道が中央部を横断する。寛永七年(一六三〇)の茂庭周防良元宛知行関係文書(茂庭家文書)に「松山之内黒江村 一、拾五貫四百四拾壱文 本地。一、六貫弐百八拾六文 新田起目」とある。寛永一七年の検地帳(同文書)では田畑合計四一貫余、名請人五七人のうち百姓五、茂庭氏の家中侍三六・足軽一六で、百姓持高合計は七貫余である。松山茂庭氏の一円知行地で、正保郷帳に田二七貫五〇三文・畑一貫四二一文とあり、ほかに同所新田一二貫七四四文があり、水損と注記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android