千疋村(読み)せんびきむら

日本歴史地名大系 「千疋村」の解説

千疋村
せんびきむら

[現在地名]関市千疋・千疋北せんびききた一―二丁目

長良川右岸にあり、武儀むぎ川が村の南西部で合流する。山県やまがた郡に属し、東から南は長良川を隔てて小簗おやな村・戸田とだ村。応永一八年(一四一一)五月三日の比丘尼明輪先達檀那売券(真長寺文書)に檀那在所の一つとして「千疋」とある。慶長郷帳では村高四二六石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では堀直寄(越後長岡藩)領。正保郷帳では幕府領、田方一一〇石余・畑方三〇九石余、山年貢六石余、ほかに川年貢一石余がある。寛文元年(一六六一)から天和三年(一六八三)まで上野館林藩領で(千疋地区沿革年表)、その後、再び幕府領となり、幕末に至る。文化一二年(一八一五)の村明細帳によれば、延宝四年(一六七六)検地により高六七七石余となり、ほかに新田・見取場四があった。


千疋村
せんびきむら

[現在地名]綾南町千疋

畑田はただ村の南に位置し、南部は讃岐山脈の北麓で、あや川支流のとみ川が山間北西流する丘陵地帯に立地。貞治元年(一三六二)細川頼之に属した小比賀助光が、細川清氏との合戦の功により千疋村を賜り、当地に居城したという(讃州細川記)。寛永国絵図では山田やまだ郷のうちに村名と法川・遠田とおだ集落名が載る。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では高三五七石余。同一九年の小物成は綿一二七匁(高松領小物成帳)


千疋村
せんびきむら

[現在地名]越谷市東町あずまちよう川柳町かわやなぎちよう、北葛飾郡吉川よしかわ共保きようほ

四条しじよう村・別府べつぷ村の南、古利根川(中川)右岸に位置し、集落は同川の自然堤防上の旧奥州道に沿って連なる。当地では天正三年(一五七五)在銘の板碑が発見されている。田園簿に村名がみえ、高は田方二六四石余・畑方一八五石余、幕府領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android