南千反畑町(読み)みなみせんだんばたまち

日本歴史地名大系 「南千反畑町」の解説

南千反畑町
みなみせんだんばたまち

[現在地名]熊本市南千反畑町

北は東西ひろ丁、西は南北に走る広丁、東は井川淵いがわぶち町と白川に接し、南は白川から東西に走る草葉くさば町通を限りとする。元禄四年(一六九一)広丁通ができるまでは、北と南は分けられずに千反畑と称された。武家屋敷地のために町名がなかったが、明治一三年(一八八〇)南千反畑町と町名がつけられ、そのなかに木庭きば丁・たて丁・同新道しんみち鐘木つきぎ(「かねもく」とも)東裏ひがしうら丁・十人衆じゆうにんしゆう小路・同西ノ丁・両人組りようにんぐみほん通の九丁を含んだ。明暦(一六五五―五八)頃には広丁はまだ作られていないが、白川から東西に通る建丁通と南北の四本の通りが作られ、広丁作成以後の原形は成立している。元禄四年以降広丁となる地域と、建丁通との間には切米取屋敷がびっしりと並ぶ。建丁通と草葉町通との間は式部少輔下屋敷と刑部少輔下屋敷が大部分を占める。式部少輔は松井佐渡で、松井家は細川三家老の筆頭家老家で、刑部少輔は細川忠興の第五子興孝からの分家の刑部家である。

元禄四年の大火契機として、南千反畑町は北側と西側を両広丁で区画された。そのほぼ中央を東の白川から建丁が走る。北千反畑町の通りの延長として、南北通りが約三二間の間隔で四本走る。また建丁通から白川沿いに南に走る小路があり、木庭丁と称した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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