南風見村(読み)ぱいみむら

日本歴史地名大系 「南風見村」の解説

南風見村
ぱいみむら

[現在地名]竹富町南風見(はいみ)

西表(いりおもて)島南端、仲間(なかま)村の南西に位置する。南東から南は海に面し、東に新城(あらぐすく)島・黒(くろ)島を望み、南方海上約二〇キロに波照間(はてるま)島がある。西から北は南風岸(はいきし)岳(四二五・一メートル)、仲間(なかま)山(三〇七メートル)、波照間(はてるま)森(四四七・三メートル)、御座(ござ)岳(四二〇・四メートル)などの山岳地帯で、山中に発した仲間(なかま)川が東流して仲間村との境をなす。河口から一キロほど上流右岸にヤッサとよばれる小島があり、一八九三年(明治二六年)の「南嶋探験」には村跡の残礎があると記される。康熙四三年(一七〇四)新城島の百姓が耕作を許可された古見(くん)村内「大浦やすら」(参遣状)はヤッサ島のことと考えられる。近世初頭、村域は古見(くん)間切崎枝(さきだ)村に含まれた(→仲間村)。正保国絵図に現南風見(ぱいみ)崎は「崎枝崎」と記され、崎枝(さきだ)崎の北西、南風見田(ぱいみだ)の浜の北端付近に「はえめ崎」とある。また三離(みちやーり)村から「はえめ崎」まで通ずる道路が描かれている。両島絵図帳では「はえめ浜」から鹿川(かぬか)村までは舟路で二里二六町とある。

雍正一二年(一七三四)人口過剰となった波照間島から四〇〇人を寄百姓して仲間村の西に南風見村が成立した。成立の条件として広大な沃野があって津口もあること、古くから波照間島百姓の楷木伐採地で、島民らが山中泊して木を伐り出していたこと、仲間村から鹿川村まで四里半の間に村がなく、遭難や異国船に対する警備が必要だったことなどがあった(参遣状)。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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