仲間村(読み)なかまむら

日本歴史地名大系 「仲間村」の解説

仲間村
なかまむら

[現在地名]竹富南風見仲はいみなか

古見くん村の南に位置し、東方海上に新城あらぐすく島・くろ島を望む。西の御座ござ(四二〇・四メートル)仲間なかま(三〇七メートル)などに発した仲間なかま川が村南縁を東流して海に注ぐ。河口左岸に仲間第一なかまだいいち貝塚・同第二貝塚がある。近世初頭仲間川流域には崎枝さきだ村があり、両島絵図帳によると高二二九石余で、古見くん間切に属した。正保国絵図南風見ぱいみ崎を「崎枝崎」と記す。崇禎元年(一六二八)の三間切制移行時の書上(八重山島年来記)崎枝村はみえず、石垣いしやなぎい間切古見村に含まれたと考えられる。「琉球国由来記」でも崎枝さきだ御嶽は古見村の御嶽とされ、「神名、同上。御イベ名、ヲレミカイ大アルジ」と記される。順治八年(一六五一)の人口は一六人で(同書)、村高に比して極端に少なく、この頃には廃村に近い状態であった。

康熙五〇年(一七一一)竹富てーどうん村と新城あらぐすく村から寄百姓して、かつての崎枝村の地に仲間村が成立、黒島保里ぷり村の地頭を仲間村地頭とした(八重山島年来記)。雍正五年(一七二七)の八重山島由来記によると集落は未(南南西)の方に向き、長さ三町一二間・横二町五六間。

仲間村
なかまむら

[現在地名]湯原町仲間

旭川右岸に位置し、上流からまき分・うえ分・した分と分けられ、対岸東は釘貫小川くぎぬきこがわ村・次樽つぎたる村。上分に久納くんのう、下分に大庭皿おおばさら・仲間・真賀まがなどの集落がある。中間村とも表記した(「作州記」など)。真賀には真賀温泉がある。正保郷帳によれば田高一二石余・畑高九〇石余、元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳によれば改出高一〇二石余・開高八石余。元禄初頭の家数四一・人数二二九(作陽誌)。津山藩森家断絶後、元禄一一年津山藩松平氏領となり、享保一二年(一七二七)には同藩半知により幕府領に移り、明和元年(一七六四)以降は勝山藩領で幕末に至った(「美作国郷村支配記」など)。宝暦一〇年(一七六〇)の村明細帳(湯原町史)によると反別は田方二町一反余・畑方二一町四反余、毛付高一二一石余、百姓持林二三ヵ所(九反余、運上銀四匁七分余)、温泉敷地運上米二石三斗、猟師鉄砲役五(運上銀五匁)

仲間村
なかまむら

[現在地名]山南町山本やまもと

小野尻おのじり村の北にある。正保郷帳に中ノ間村とみえ、田高七石余・畠高二三石余、芝山と注記がある。柏原藩領。慶安三年(一六五〇)までの領主の変遷は南嶋みなみじま村に同じ。国立史料館本元禄郷帳では旗本杉浦領。「丹波志」には福本村(前は仲間という)とあり、同領として高三二石余で家数二三。天保郷帳では三七石余。福本村の名は「丹波志」が初見であり、天保郷帳には仲間村とあり、「丹波志」以後も両村名の混用が数度となく認められる。福本村は明治一九年(一八八六)片山かたやま村との合併願を提出し永富ながとみ村となり、翌年山本村と改称。産土神は小畑おばたけにある牧山まきやま神社で、檀那寺も同地の高野山真言宗延命えんめい寺。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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