鹿川村(読み)かのかわむら

日本歴史地名大系 「鹿川村」の解説

鹿川村
かのかわむら

[現在地名]能美町鹿川

なか村の南にあり、能美島西海岸の中央部にあたる。西は才越さわごえ峠を経て大王だいおう村・おか(現沖美町)に至る。西部は大矢鼻おおやばなが南方海上へ突出して鹿川湾を形成。村の東西は山地で、中央部に開けた小平地と山麓の緩斜面および沿岸に集落が展開する。永禄―天正(一五五八―一五九二)頃には能美兵部丞の領地であったという説がある。元和五年(一六一九)の安芸国知行帳では「のふミ島にし」に含まれる。寛永一五年(一六三八)の地詰帳(「大柿町史」所収)によれば、高四二五石余の村として成立。広島藩蔵入地。「国郡志下調書出帳」によれば、昔、鹿が群生したところから寛永頃までは「鹿皮村」と記され、西能美にしのうみ島に属したが、慶安(一六四八―五二)頃から鹿川村と改め東能美島に変わったという。その後の広島藩御覚書帖の朱書によると、当時再び西能美島とされている。


鹿川村
かぬかむら

[現在地名]竹富町崎山さきやま

崎山さきやーん村の小村。同村の南東、南に開口する鹿川かのかわ湾の西側に位置する。古く南太平洋のカナカ族が漂着・定住した所と伝える。両島絵図帳に「かの川村」とみえ、高四四石余で入表いりむてい間切に属する。崇禎元年(一六二八)の三間切制移行時の書上(八重山島年来記)に村名はみえず、大浜ほーま間切慶田城きだすく村に属したと考えられる。八重山島年来記の順治八年(一六五一)条に「かのか」とみえ、人口は船浮ふなき村・成屋なりやー村と合せて五二人。雍正五年(一七二七)の八重山島由来記に村は辰(東南東)の方を向き、長さ一町三二間・横五一間とある。乾隆二年(一七三七)の調査報告(参遣状)によると慶田城村の小村で、村回り三町五六間、人口四二人。


鹿川村
ししがわむら

[現在地名]時津町子々川郷ししがわごう

日並ひなみ村の北西に位置し、北部は海に臨む。南西部に堂風どうふう岳、北東部にむかい岳があり、両山の間を子々川川が北流する。沖にまえ島・たか島がある。中世は彼杵そのき庄のうちで、建武元年(一三三四)一〇月一七日の大友貞載書下案(深堀文書)に「当庄日波鹿皮村」とみえ、彼杵庄南方地頭(肥後光景)代官の賢法は深堀明意(時通)・同弥五郎(政綱)父子らが両村に放火・刃傷などの狼藉を行ったとして訴えており、これをうけた肥前守護大友貞載が守護代の斎藤正遍に対して、これを停止させるために大村氏・日宇氏・今富氏らに出兵させるよう命じている。文禄・慶長の役で軍功をあげた大村右馬助純直(大村城主大村喜前の弟)の知行一三一石余が当地に置かれていたが、その子の敏武が乱心で自害したため元禄年間(一六八八―一七〇四)の初めから片山六左衛門の知行に代わったという。


鹿川村
かのかわむら

[現在地名]笠懸村鹿しか

大間々おおまま扇状地の扇央北部にあり、東は阿佐美あざみ村のうち岩宿いわじゆく、北・西は鹿田しかだ村、南は加波かは村。村央を南北に銅山あかがね街道が通る。寛文九年(一六六九)の鹿田村等野境論争裁許絵図(田村家蔵)には「四拾年以前鹿田新田鹿皮」とみえ、寛永六年(一六二九)鹿田村の新田として開発されたらしい。寛文郷帳に「鹿皮新田村」とみえ、田方四石五斗余・畑方二九一石九斗余、芝山有と記される。旗本牧野領。


鹿川村
ししかわむら

[現在地名]幡豆町東幡豆ひがしはず

現国道二四七号の幡豆町と蒲郡市の境界の峠付近、鹿川沿いに発達した山間村落さん山から流れる小川が支流で数本に分れ、その形状は鹿の角に似ている。近世は松平対馬守領。嘉永六年(一八五三)の丑郷帳(牧野健吉氏蔵)による納合高は、米が高に比し約四割と高率である。また山林関係の役銭は約九貫文で、他村と比して著しく高い。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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