新城島(読み)あらぐすくじま

日本歴史地名大系 「新城島」の解説

新城島
あらぐすくじま

西表いりおもて南風見ぱいみ崎の南東約六・五キロ、くろ島の南西約四キロにある上地かみじ(方音カンジィ)下地しもじ(方音シィムジィ)二島の総称で、字新城あらぐすくを構成。石西せきせい礁湖内にあり、西表いりおもて国立公園に含まれる。俗にパナリ(離れの意)といい、古く上地上離かみばなり(ウイバナリ)島、下地下離しもばなり(シィムバナリ)島といった。「中山伝信録」に「阿喇姑斯古 訳曰新城、在八重山西」とみえ、「サマラン号来航記」にはArakusikuと記される。北の上地は面積一・七六平方キロ、最高標高一三メートルの長方形状、南の下地は面積一・五八平方キロ、最高標高二〇・四メートルの楕円形状で、いずれも第四紀更新世の琉球石灰岩でできた低島で、ヌングン(野の国)島に属する。下地の北岸には小規模な砂嘴が上地方向に延び、両島の間は四二〇メートルほど離れているが、深さ四メートルほどの浅い水域で干潮時には歩いて渡れる。パナリの称については新城島が主島(ここでは黒島)から離れているからという説と、上地・下地の二島がわずかな距離を置いて離れているからという二説がある。

朝鮮の成宗八年(一四七七)与那国島民に救助された朝鮮済州島の漂流民三人が波照間はてるま島の次に護送された「勃乃伊島」「捕剌伊是麼」はパナリ島で、当島のこととみられる。漂流民らによると波照間島から一昼夜で到着、島は平坦で山はなく、二日ほどで一周でき、民家はわずか四〇戸余であった。男女とも青珠を腕輪や足輪にし、黍・粟・麦は栽培されているが、米は西表島で入手しているという(李朝実録)。新城島には古琉球―近世の遺跡が多数ある。上地にはブシヌヤー(武士の居館)と称する遺跡や火番盛(遠見台)・村落跡などがある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「新城島」の意味・わかりやすい解説

新城島
あらぐすくじま

沖縄県石垣島の南西海上約 25kmに浮かぶ島。竹富町に属する。方音ではパナリィ,パナリという。上地島と下地島の 2島からなる。16世紀頃から 1850年代頃までパナリ焼と呼ばれる土器を生産した。かつてはジュゴンが多く生息し,人魚の肉として首里王府に献上した。上地島にジュゴンの大漁を祈願した人魚神社がある。北西沖の海域は,新城島マイビシ海域公園地区に指定。全島が西表石垣国立公園に属する。面積は上地島 1.76km2,下地島 1.57km2人口 10(2020)。

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世界大百科事典(旧版)内の新城島の言及

【沖縄[県]】より

…そして現在も魔よけの屋根獅子や置物の獅子,抱瓶(だちびん),碗,皿,壺などが,灰釉,飴釉,黒釉,呉須などを用いて焼かれ,魚文に代表される大らかな文様を施した温かみのある陶器が作られている。なお新城(あらぐすく)島(現,竹富町)で19世紀中ごろまで作られたパナリ焼は土器で,製法は古く中国人が伝えたともいわれる。つる草やタブノキの粘液を土に混ぜてこね,手で成形してカタツムリや貝肉の粘液を塗り,露天で焼いた。…

【八重山地震津波】より

…1771年4月24日(明和8年3月10日)午前8時ころ,〈石垣島付近東南東数十粁の処を東北東西南西に走る線〉を震源地とし,マグニチュード7.4の地震が発生した。その結果,まもなく未曾有の大津波が八重山・宮古両列島(現,沖縄県)の島々村々を襲った。津波の被害が甚大で,〈明和の大津波〉とも呼ばれる。当時の記録《大波之時各村之形行(なりゆき)書》には,地震直後石垣島の東海に雷鳴のような轟音(ごうおん),そして退潮現象,東北・東南海上に黒雲のように波が翻り立った,という異常現象のあったことを伝えている。…

※「新城島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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