印東庄(読み)いんとうのしよう

日本歴史地名大系 「印東庄」の解説

印東庄
いんとうのしよう

平安時代末期に印旛郡印旛沼東岸地方に成立した庄園。現佐倉市・酒々井しすい町・富里とみさと町および成田市南西部にわたる一帯に比定される。平安時代末期の印東庄郷司村司交名(醍醐寺本醍醐雑事記七・八裏文書)に印東御庄とみえ、庄内地名として篠塚しのづか(現佐倉市)中沢なかざわ新橋につぱし(現富里町)石橋いわはし小上おがみ(現酒々井町)などがみえる。現松戸市本土ほんど寺が所蔵する鐘の建治四年(一二七八)三月一一日付の銘文に「印東庄六崎大福寺」、現成田市東勝とうしよう寺が保管する鐘の応長元年(一三一一)一一月日付の銘文に「印東庄八代郷船方薬師寺」、江口家蔵の明応九年(一五〇〇)在銘の鰐口に「印東庄墨郷勝福寺」、現佐倉市海隣かいりん寺旧蔵の永禄八年(一五六五)七月一四日付の阿弥陀如来像の銘文(成田名所図会)に「印東庄佐倉長徳寺」、天正一八年(一五九〇)五月二日の浅野長吉・木村一連署副状(勝胤寺文書)に「印東庄本桜」などとある。近世初頭には天正一九年の中台なかだい(現酒々井町)高崎たかさき(現佐倉市)大輪おおわ(現富里町)、慶長九年(一六〇四)北須賀きたすか(現成田市)などの検地帳に印東庄とあり、庄域は印旛沼東岸沿いと印旛沼に注ぐ鹿島かしま川の中下流右岸、および鹿島川の支流高崎川の流域に及び、根木名ねこな川上流部も庄域としたとみられる。

前掲郷司村司交名および平常澄解・菅原定隆書状(いずれも醍醐寺本醍醐雑事記七・八裏文書)によると当庄の庄官を務めていた前権介平常澄は年貢納入について預所の菅原定隆と紛争を起こし、その裁定を本家に申請した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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