日本大百科全書(ニッポニカ) 「友鶴事件」の意味・わかりやすい解説
友鶴事件
ともづるじけん
1934年(昭和9)3月12日、竣工(しゅんこう)直後の水雷艇「友鶴」が佐世保港外で夜襲訓練中、風浪を受けて転覆沈没、乗組員113人中100人が殉職した事件。原因は、復原力を犠牲にして過重な兵装を搭載したため約40度の動揺反復に耐えられなかったものとわかった。
当時列国海軍はロンドン軍縮条約による「艦隊休日」を実施していたが、600トン未満の艦艇については規制がなかったため、海軍軍令部は600トンの艦体に1000トン級の能力と装備を与えようと計画、5インチ砲3門、21インチ魚雷発射管4門、速力30ノット、航続距離3000キロメートルの水雷艇の建造を始めていた。友鶴は姉妹艦3隻とともに主要兵装を撤去・換装して再就役したが、翌年の第四艦隊事件と並んで用兵側の過酷な要求に技術陣が妥協した結果の不祥事である。
[前田哲男]