日本大百科全書(ニッポニカ) 「日本海軍」の意味・わかりやすい解説
日本海軍
にほんかいぐん
大日本帝国海軍ともいう。近代日本の海上兵力で、明治新政府成立とともに創建され、第二次世界大戦における敗北の結果、解体・消滅した。今日の海上自衛隊に人事・施設面での痕跡(こんせき)を一部残したとはいえ、その存続期間は、海軍省設置(1872)から数えても、73年にしかすぎない。この間、日清(にっしん)・日露の戦役に従事して戦勝の立役者となり、一時は、英米と並ぶ世界三大海軍国の地位を謳歌(おうか)したが、その英米と同時に戈(ほこ)を交える最悪の方向に自らを追い詰め、太平洋における一連の海空戦で多くの将兵と艦艇のほとんどを失って、歴史の幕を閉じた。
[前田哲男]
創設当初
創設から5年間は官制に「海陸軍」と表されていたことでもわかるように、明治新政府は対外政策上から海軍力を重視、育成する姿勢を示していた。兵部省の建議書「大(おおい)ニ海軍ヲ創立スベキノ議」の一節には、「イギリスはロシアに比すれば国少にして陸軍の数大いに劣るといえども、海軍の力は遙(はる)かに勝(まさ)れり」とあり、帝政ロシアを想定敵国とし、大英帝国型海洋国家を目ざすことが海軍創建の思想的基盤であった。1872年(明治5)2月海軍省設置に至るまで、海軍行政は、太政(だじょう)官官制の「海陸軍科」「軍防事務局」「軍務官」「兵部省」を変遷したが、この期間中、1869年に教育機関として海軍操練所(翌年兵学寮、1876年兵学校と改称)開設、また1870年にはイギリス式制度を日本海軍の手本とすることを決定、さらに1871年横須賀(よこすか)造船所(後の海軍工廠(こうしょう))を完成させるなど基盤形成がなされた。1873年、初代海軍卿(きょう)・勝安房(かつあわ)は――結局幻と終わったものの――一大製艦計画を提出、甲鉄艦26隻、大艦14隻、中艦32隻、小艦16隻、運送艦以下16隻、総計104隻からなる艦隊を18年以内に整備することを提案した。対露戦備の嚆矢(こうし)といえるものである。1875年イギリスに軍艦3隻の建造を発注、扶桑(ふそう)(戦艦)、金剛(海防艦)、比叡(ひえい)(同)を得てからは、海軍拡張は急速に進んだ。下って1886年には内閣制度発足によって、海軍大臣が海軍軍政を管理・監督する体制の確立をみた。初代海軍大臣に任命されたのは陸軍中将・西郷従道(つぐみち)であった。同時期、軍令機関として参謀本部海軍部も編制され、これにより海軍も陸軍と同様、軍政と軍令の二元組織となった(1893年以降は海軍軍令部、1933年からは軍令部と称す)。
[前田哲男]
明治中期から日清・日露まで
明治中期、日清・日露の外征戦争に備えて海軍軍備はさらに進展の歩を速めるが、この時代を体現する人物は、「日本海軍生みの親が勝海舟ならば、育ての親は山本権兵衛(ごんべえ)である」という評言に表されるとおり、海軍省官房主事・山本権兵衛大佐(のち大将)であった。兵学寮を卒業し海兵第一期生となった山本は主事に任命されるや海軍諸制度の改革整備に全力をあげ「大佐大臣」の異名をとった。山本主事の下で、維新の勲功により将官の地位を占めていた上層部の淘汰(とうた)が行われ、かわって新教育を受けた士官の登用が行われた。
日清戦争開始の際、日本海軍の勢力は、軍艦31隻5万9800トン、水雷艇24隻1470トンで、常備艦隊と西海艦隊をもって連合艦隊を編成、旗艦に松島(4278トン)をあて伊東祐亨(ゆうこう)中将が初の連合艦隊司令長官として海戦を指揮した。この戦役では黄海海戦(1894)において、優勢な清国北洋艦隊と相対した連合艦隊が、速力および速射砲の優越を利して清国側を圧倒し、海戦史上最初の甲鉄艦どうしによる海戦に勝利を収めるとともに、黄海の制海権を獲得、以後、陸軍への補給・輸送作戦を容易ならしめて戦勝の道を開いた。日清戦争後、次に対露開戦必至とみた海軍首脳(西郷海相、山本軍務局長)はさらに大規模な海軍拡張計画にとりかかった。六・四艦隊(戦艦6、1等巡洋艦4よりなる艦隊)から六・六艦隊へと改訂される決戦艦隊の建造計画がそれである。富士、八島、敷島、朝日、初瀬、三笠(みかさ)など1万トンを超す主力艦を戦列に組み入れ、一方、統帥面においても戦時大本営条例改正をめぐる折衝で、それまでの陸軍優位の機構を陸海並立とすることに成功し、天皇の下での陸海軍比肩連立時代を確定した。山本権兵衛は1898年以降海軍大臣の地位にあり、これら作業を成し遂げて日露開戦に臨んだ。こうした周到な準備が功を奏し、日本とロシアの海戦は、装備、練度、士気いずれの面でも日本側の圧倒するところとなり、日本海海戦(1905)における連合艦隊(東郷平八郎司令長官)の完勝をもって、明治期日本海軍はそのクライマックスをしるした。
[前田哲男]
大艦巨砲時代
日露戦勝後、日本海軍は栄光の絶頂にありながら没落の影を宿すようになる。一つは、幕末以来の宿敵ロシアを降(くだ)し想定敵国をアメリカへと転換した結果、引き続きロシアとの再戦に備える作戦を目標とした陸軍と戦略指向において深刻な分裂を生じたこと、いま一つは、統帥権独立によって分離した軍政(海軍省)部門と軍令(海軍軍令部・連合艦隊)部門との間に隔意をしだいに大きくし、第一次世界大戦後の海軍軍縮会議(ワシントン・1921、ロンドン・1930)の際あらわになったような、「統帥権干犯」を名分として海軍省の統制に従わない部分(艦隊派)を抱えるようになったことである。山本権兵衛の目ざした一枚岩の大海軍主義は日露戦争を境として急速に変質し、昭和時代の「イデオロギーなき冒険主義」へと継承されてゆく。
とはいえ、20世紀初頭の30年間は、日本海軍がその歴史のなかでひときわ光彩を放った時代であった。1907年(明治40)初めて策定された「帝国国防方針」において、海軍の兵備は「米国ノ海軍ニ対シ、東洋ニ於(おい)テ攻勢ヲ取ル」対米標準戦備とすることを明記、同時に採択された「国防所要兵力」は、戦艦8隻、装甲巡洋艦8隻からなる兵力を「国防上ノ第一線艦隊トス」と定めた。ここに「八・八艦隊」によって象徴される大艦巨砲時代、戦艦全盛時代が到来するのである。1920年(大正9)竣工(しゅんこう)した戦艦「長門(ながと)」、同1921年の「陸奥(むつ)」は連合艦隊のシンボルであり、同時に「三大海軍国」の威容を現すものだった。この思想の下、戦艦「大和(やまと)」(1941年竣工)、「武蔵(むさし)」(1942)建造が推進される。当時構想されていた対米作戦方針によれば、八・八艦隊をもって主力とする日本海軍は渡洋してくる米艦隊を西太平洋に迎え、小笠原(おがさわら)諸島を前哨(ぜんしょう)線、南西諸島を決勝線にしてこれを撃破するというものであった。その後、日米決戦海域は艦の大型化に伴い、大正時代には小笠原諸島、昭和に入るとマリアナ~西カロリン諸島海域へと遠隔化していくが、基本となる迎撃・決戦・巨砲の勝利という作戦構想は、対米開戦直前まで揺らぐことはなかった。艦隊整備と並行して、「月月火水木金金」とよばれる厳しい訓練の日々が日本海軍のもう一つの代名詞となる。
[前田哲男]
海軍軍縮から建艦競争へ
しかし一方で八・八艦隊への努力は、重い財政負担となって国民生活を苦しめた。第一次世界大戦後の国際的な平和気運を受けて招請された、海軍軍縮を目ざすワシントン会議に日本が参加したのも、政府(原敬(たかし)首相、加藤友三郎海相)側にこの会議を「財政の破滅から日本を救う神風」とする認識があったからにほかならなかった。ワシントン条約は米・英・日の主力艦保有トン数を5・5・3とし、八・八艦隊計画の断念が決定されるが、海軍部内には真の日本の国力を知ろうとするより、米英と安易に妥協したとする不満がくすぶるようになり、次のロンドン軍縮条約を機に対米強硬の政治潮流を形成するようになる。ロンドン条約承認をめぐっては、「統帥権干犯」を不服とする加藤寛治軍令部長の抗議辞任を引き金にして海軍省と海軍軍令部の権限・責任調整問題(省部互渉規程改訂)にまで拡大し、この処理の過程で軍令部権限の大幅拡張がもたらされ、ここに明治建軍以来保持されてきた海軍部内における政治優先思想(海軍大臣主導型)は大きく動揺した。軍政派とよばれた山梨勝之進(やまなしかつのしん)、堀悌吉(ほりていきち)らの現役引退も、以後の時局処理を硬直化させる因となった。
日本の国力を過信し対米戦不可避とみる勢力の台頭を許したことにより、建艦制限条約によって逆に米海軍の兵力拡大制限を策した海軍省内の穏健派は、しだいに統率力を低下していった。そして1936年(昭和11)の第二次ロンドン会議において永野修身(おさみ)全権は会議脱退を通告、13年間続いた「ネイバル・ホリデー」(海軍休日)時代に、日本の手で幕を引いた。以後「無条約時代」とよばれる建艦競争の時代が始まり、大和級戦艦の建造が急がれる一方、国際的孤立感の深まりをドイツ、イタリアとの提携によって埋めようとする主張も力を得るようになる。この軍縮離脱と、1931年に始まる日中戦争へのしだいに深まる干与の結果、日本海軍は米英2国を同時に敵とする想定外の戦争にいやおうなく方向づけられるに至った。当初陸軍主導の中国作戦に距離を置いていた海軍も、戦火が中国東北部から長江(揚子江(ようすこう))流域に広がるにつれて介入の度を深めるようになり、一方、中国侵略の拡大は米英政府による対日経済制裁として跳ね返ってきたからである。とりわけ海軍は燃料の石油をほぼ全量アメリカからの輸入に依存(1939年、全輸入量の90%にあたる445万キロリットル)しており、その効力は致命的であった。中国政策を転換しえない海軍は、かわりの石油入手先としてオランダ領東インド(インドネシア)に着目、ドイツ軍のヨーロッパ席巻(せっけん)に便乗した南進論を発動しようとして対立点と地域をさらに拡大させ、ここに対米英との開戦は時間の問題となった。
[前田哲男]
終幕
1941年12月8日の対米開戦は、こうした一連の政策破綻(はたん)のいわば総決算として、成算や長期戦への準備もなしに決行され、しかも海軍や連合艦隊が長年考え訓練してきた戦闘とは大きく違った推移をたどる展開を示した。巨砲の優を利した主力艦隊決戦の機はついに訪れず、太平洋における日米海軍の対決は空母機動部隊による制空権獲得の下での島嶼(とうしょ)争奪戦を主軸として動き、もう一面ではここでも日本海軍がまったく予期しなかった米潜水艦の通商破壊戦にあって、戦力や資源をむざむざ失うはめに陥った。黄海(日清戦争)と日本海(日露戦争)の海戦時には技術・戦術両面で新時代の新海軍たりえた日本海軍も、太平洋海戦の時代には旧海軍でしかなくなっていたのである。最後の海軍大臣となった米内光政(よないみつまさ)大将は海軍省解散(1945年11月30日)に際し、以下のように述べた。「明治初頭海軍省の創設以来、七十余年、この邦家の進運と海軍の育成に尽瘁(じんすい)せる先輩諸子の業績を憶(おも)う時、帝国海軍を今日において保全すること能(あた)わざりしは吾人(ごじん)千載の恨事にして深く慙愧(ざんき)に堪えざる所なり。」
[前田哲男]
『防衛庁戦史室著『大本営海軍部・聯合艦隊』(1975・朝雲新聞社)』▽『海軍有終会編『近世帝国海軍史要』(1936/復刻版・1974・原書房)』▽『篠原宏著『海軍創設史』(1986・リブロポート)』▽『日本近代史料研究会編『日本陸海軍の制度・組織・人事』(1971・東京大学出版会)』