鳴滝組(読み)なるたきぐみ

改訂新版 世界大百科事典 「鳴滝組」の意味・わかりやすい解説

鳴滝組 (なるたきぐみ)

昭和10年前後(1934-37ころ)に京都の鳴滝の住人だった映画監督,脚本家のグループの名称。山中貞雄稲垣浩滝沢英輔荒井良平,土肥正幹,三村伸太郎,八尋不二,藤井滋司の8人が〈梶原金八〉というペンネームで新しい自由な映画づくりをめざしてシナリオの合作や共同製作を行った。その意味では戦後のフランスの〈ヌーベル・バーグ〉,とくに映画研究誌《カイエ・デュ・シネマ》の批評家出身のグループに似た存在であったかと思われる。当時,鳴滝の近くの太秦(うずまさ)や嵯峨には,日活,帝キネ,千恵蔵プロ,マキノ,寛寿郎プロの撮影所があり,8人はそれぞれ所属の撮影所は違ったが,お互いにその仕事を助け合った,と脚本家の三村伸太郎は述懐している。

 〈梶原金八〉の名で彼らがめざしたものは,時代劇現代劇が画然と区別されていた当時の〈時代劇映画の窮屈な形式から自由になること〉で,〈せりふは思いきって平明な現代語〉を使い,〈映画の題材に転換をこころみ〉,〈偶像化された英雄主義から,庶民が主体性をもつ〉新しい時代劇を生み出すことであった。山中貞雄監督の《足軽出世譚》(1934),《丹下左膳余話・百万両の壺》《街の入墨者》(ともに1935),《河内山宗俊》《海鳴街道》(ともに1936),稲垣浩監督の《利根の川霧》(1934),《富士の白雪》(1935),山中,稲垣共同監督の《関の弥太ッぺ》(1935),《怪盗白頭巾》(1936),滝沢英輔監督の《晴れる木曾路》《太閤記》(ともに1935),《海内無双》《宮本武蔵》(ともに1936),荒井良平監督の《江戸の春遠山桜》(1936),萩原遼監督の《荒木又右衛門》(1936)等々がそこから生まれ,これらの新しい自由奔放な時代劇は〈ちょんまげをつけた現代劇〉と呼ばれた。鳴滝組と松竹の清水宏,小津安二郎との親交もあって(とくに山中貞雄と小津の結びつきは重要である),《雁太郎街道》(1934)から《人情紙風船》(1937)に至る山中貞雄作品は〈時代劇の小市民映画〉とも呼ばれた。

 1937年,鳴滝組の中心的存在だった山中がPCL(東宝の前身)に入社して東京に移住したため,鳴滝組は事実上解散する形になったが(三村伸太郎の述懐によれば,《人情紙風船》を置きみやげにして1938年に山中貞雄が戦死したあと,41年の稲垣浩監督《海を渡る祭礼》が鳴滝組の最後の仕事になったという),しかし,〈ちょんまげをつけた現代劇〉はその後の時代劇の正統となって日本映画史に根づいているといえよう。
時代劇映画
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の鳴滝組の言及

【時代劇映画】より

…そして,それがいわゆる左傾化した〈傾向映画〉の動きと結びついて,伊藤大輔監督《一殺多生剣》《斬人斬馬剣》,辻吉朗監督《傘張剣法》,古海卓二監督《日光の円蔵》(ともに1929)を生み,内田吐夢監督《仇討選手》(1931)まで,多くの問題作を出現させた。
[小市民映画と鳴滝組]
 世界大恐慌による不景気,戦争への歩みといった暗い世相の中,映画はサイレントからトーキーへと移り変わり,一方に検閲の強化もあって,時代劇は大きく変貌していく。その渦の一つの中心となったのは片岡千恵蔵プロダクションで,伊丹万作監督が《逃げ行く小伝次》《花火》などを経て,ほんものの剣聖がにせものに敗れるという話の《国士無双》(1932)で諧謔(かいぎやく)と風刺の精神を明朗かつ知的に打ち出し,《闇討渡世》(1932)では同じ姿勢で平手造酒の孤独を描いて,伊達騒動を背景にした《赤西蠣太》(1936)でその知的散文精神に基づく映画づくりを完成させる一方,稲垣浩監督《瞼の母》《一本刀土俵入り》(ともに1931),《弥太郎笠》(1932)などが,哀愁と明朗さに満ちた股旅もの映画のスタイルをつくり出した。…

※「鳴滝組」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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