反町村(読み)そりまちむら

日本歴史地名大系 「反町村」の解説

反町村
そりまちむら

[現在地名]新田町反町

大間々おおまま扇状地南方の沖積地帯にあり、北東村田むらた村、北は市野井いちのい村、南は木崎きざき村。反町館跡(照明寺)を中心とした地域に中心集落、西方振矢ふるや、南方に雁子がごという小集落がある。反町館跡近くにはじようという小字名も残る。寛文年間(一六六一―七三)市野井村から分村したとされるが(生品村郷土誌)、慶安元年(一六四八)木崎村への寄馬覚(中島文書)に村名がみえる。寛永七年(一六三〇)当村のうち一九二石三斗余が旗本水野大内蔵に宛行われたという(「木崎宿検地御地頭古記」福島文書)。寛文郷帳では田方八一三石二斗余・畑方一九五石九斗余で、旗本中根・水野・小林領の三給。


反町村
そりまちむら

[現在地名]四賀村錦部にしきべ 反町

松本藩領会田あいだ組で、のち幕府領苅谷原かりやはら村の西北に接し、北流する保福寺ほうふくじ川左岸に東面した斜面の村である。

中世苅谷原かりやはら郷に属したが、寛永六年(一六二九)幕府金山かなやま(金山町村)領になり、同年の検地で初めて二三三石二斗八升二合と高付けされた。享保九年(一七二四)の「信府統記」には途中幕府領となったため記載はない。


反町村
そりまちむら

[現在地名]二宮町反町

水戸部みとべ村の西方対岸、小貝こかい川右岸の平坦地にあり、北は高田たかだ村。慶安郷帳に村名がみえ、田高七三石余・畑高八三石余、幕府領。慶安二年(一六四九)常陸土浦藩領となり(「寛文朱印留」など)元禄郷帳では幕府領。元禄一四年(一七〇一)ないしは同一六年下総結城藩領となり幕末に至る。明和二年(一七六五)徳川家康百五十回忌法会に際し、日光街道間々田ままだ宿(現小山市)雀宮すずめのみや宿(現宇都宮市)増助郷(高一〇〇石につき人足六人・馬三疋)を課された当村ほか一九ヵ村は同年負担軽減を求める訴えを起こしている(「助郷役用捨訴願」岡田純一文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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