朝日日本歴史人物事典 「古市澄胤」の解説
古市澄胤
生年:享徳1(1452)
室町時代の大和国(奈良県)国人,興福寺衆徒。胤仙の子。権律師。寛正6(1465)年14歳で出家し,興福寺六方衆倫観房澄胤となる。文明7(1475)年兄胤栄に代わって家督を継ぎ,播磨公澄胤と称す。同10年に官符職を獲得し,以降筒井氏らと対抗。また翌11年閏9月に筒井順尊の兵と転害郷に戦ったのをはじめ,筒井一族や成身院光宣と抗争を続け,同12年,兄胤栄は弟澄胤の暴行を憂えて遁世せんとしたという。13年3月福住の民家を焼き,15年10月には通路妨害をしたとして布留郷を襲い放火。大和国内の早山・多田両氏の抗争では多田氏に味方し,長享1(1487)年4月,早山方の順尊,十市遠相らと戦っている。明応2(1493)年9月,幕府政所執事伊勢氏の配下として,文明17年以来続いていた山城国一揆を同国稲八妻城に攻撃したことは有名である。明応6年11月筒井一族と大和国に戦ったが,敗れて一時山城国笠置に退く。同9年以降の細川政元内衆赤沢朝経の山城・大和国攻撃には,朝経方について大和国平定に協力した。しかし,永正4(1507)年6月政元が暗殺されるにおよんで,筒井氏をはじめとする大和国人に対する敵対行動は澄胤自身を脅かすものとなっていた。同5年,朝経の養子長経に従って大和国人と戦ったが,長経は敗死,澄胤も同年7月ごろ越智氏に捕らえられて殺害された(『守光公記』)。茶祖村田珠光と交流があったが,古市氏の淋汗茶の湯の隆盛は兄胤栄の代であったと考えられる。
(森田恭二)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報