室町時代の茶人。独盧(どくろ)軒と号す。奈良に生まれる。少年のとき浄土宗称名(しょうみょう)寺に入ったが、やがて寺を出て京都に上り、茶人となったといい、京都では六条左女牛(さめうし)(下京(しもぎょう)区)に住んだと伝える。一休に参禅し、印可の証として圜悟克勤(えんごこくごん)の墨蹟(ぼくせき)を与えられたが、これを初めて茶掛に用いたことから墨蹟開山と称せられる。一休との関係については、1493年(明応2)大徳寺真珠庵(しんじゅあん)の「一休和尚(おしょう)十三回忌奉加帳(ほうがちょう)」に一貫文を寄付したことがみえる。室町将軍足利義政(あしかがよしまさ)の同朋衆(どうぼうしゅう)、能阿弥(のうあみ)の推挙で義政に参仕したと伝えるが、事実とは考えがたい。ただし能阿弥から『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)』の相伝を受けており、書院茶の世界と無縁ではなかった。連歌(れんが)師の宗長(そうちょう)や香の志野宗信(しのそうしん)らとも親交した。一の弟子であった大和(やまと)の土豪、古市澄胤(ふるいちちょういん)に与えた「心の文」には、「和漢の境を紛らかすこと」の必要を説き、当時唐物(からもの)にかわる和物数奇(わものすき)が高揚し始めていたことを示す文献として貴重。「月も雲間のなきは嫌(いや)にて候」(『禅鳳雑談(ぜんぽうぞうたん)』)の語も珠光の美意識を示すものとして有名である。弟子の宗珠(そうしゅ)を後嗣(こうし)とした。
[村井康彦]
(戸田勝久)
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わび茶の開祖。南都の杢市検校の子として生まれたとされる。幼名茂吉。11歳で称名寺に入り出家となったが,長ずるに及んで出家を厭い,寺役を怠ったため寺から追放される。また両親からも勘当をうけて漂泊の身となり,連歌師として,あるいは闘茶の判者などをして諸国を流浪した。のちに能阿弥を知り,立花の法を学ぶとともに器物の鑑定にも長じた。また一休禅師に参禅して〈仏法も茶湯の中にあり〉の語を得てからは,茶禅一味の境地に達し,これを貫いた。やがて〈和漢のさかいをまきらかす〉という独自の茶の湯観念を確立。有名な〈藁屋に名馬繫ぎたるがよし〉(《山上宗二記》)は,対比美の認識以前に,麤相(そそう)な中にあって名馬のように美しく,心豊かにあるという珠光わびの精神の本質を名言したもの。
執筆者:筒井 紘一
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1423~1502.5.15
室町中期の茶人。茶の湯の開山といわれ,奈良流茶道を大成。その経歴は不詳だが,後世の史料によれば,父は村田杢市(もくいち)検校,幼名茂吉といった。30歳の頃,京都大徳寺の一休宗純に参禅して,「仏法モ茶ノ湯ノ中ニアル」(「山上(やまのうえ)宗二記」)と悟り,茶禅一味の境地を会得。8代将軍足利義政に茶道指南として仕えた。能阿弥の規格化した華麗な茶事に対して,内省的で心の美や侘(わび)の境地を強調。その精神は弟子に与えたという「珠光古市播磨法師宛一紙目録」に記される。要旨は,人はつねに奢らず,謙虚に茶道を学ぶべきで,自制の心で行動しなければならないと説く。
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…器種は壺,甕(かめ),擂鉢(すりばち)が主流で,素地(きじ)は長石粒や石英粒を多く含んだ山土を用い,明るく赤褐色に焼きあがったものが多く,肩に檜垣(縄目)文を刻んだり,自然釉のかかったものもある。室町時代末以降,〈侘茶(わびちや)〉の興隆とともにこれら焼締め陶が村田珠光ら茶匠によって注目され,茶壺,水こぼし,水指,花入など茶道具としても取り上げられた。苧桶(おおけ)を水指に転用するなど〈見立てもの〉から始まり,桃山期以降は茶匠の好みものも作られ,備前焼とともに侘道具の双璧をなした。…
…その寂後10年目の1491年(延徳3)に完成。造立経費は大徳寺再建を援助した堺の貿易商尾和宗臨(おわそうりん)(?‐1501)はじめ,数寄者村田珠光,連歌師宗長などの寄進。現在の建物は江戸初期の再建である。…
…応仁の乱で炎上したが,乱後に住持となった一休宗純は,その反骨の大徳寺禅を堺の町衆社会にひろめ,彼ら豪商の外護で方丈や法堂(はつとう)など伽藍の復興をなしとげた。 また村田珠光は,侘茶の創始にあたって一休に参禅し,これ以後,茶人の大徳寺禅への傾倒が盛んになり,当寺は近世侘び茶の隆盛の結節点の役割を果たし,大徳寺の〈茶づら〉と世間に評されるようになった。近世の初頭,武人数寄(すき)の流行と相まって,諸大名の当寺への帰依は著しく,大名らがつぎつぎと塔頭(たつちゆう)を山内に建て,寺運は隆盛をきわめた。…
…同朋衆は茶道にも造詣が深く,会所の一部に設けられた茶の湯の間などと呼ばれる部屋で茶をたてる役も務めた。 一方,15世紀後半になると村田珠光によって新しい茶風が創始された。村田珠光は奈良の人で,のちに京都に出て一休宗純に参禅し,その茶の思想は〈心の文〉と呼ばれる文章によく表れている。…
…文化水準において対等であるか,または決定的に異質な文化体系であれば,問題なく単なる飲料として受け入れられたのであろうが,基本的に中国文化を摂取しながら,独自の文化体系を模索してきた日本の場合,とくに室町期に入って京都という最も民族性に適した都市を文化の中心にするにいたって,ことさら独自性が意識されてきただけに,中国文化への傾斜は,それからの離反と表裏をなすような精神構造になっていた。この問題を茶の湯についてみれば,村田珠光のいう〈和漢のさかひをまぎらかす〉ことの主張となって表現されている。この思想は,中国文化を積極的に日本の風土,生活慣習の中に融和させ,そしてさらに中国文化から脱却して,独自の文化を展開させることであった。…
…《花伝書》がつくられるようになるのも,応仁・文明の乱前後のことである。茶では村田珠光が登場し,書院茶の湯の略体化を進め,枯淡の美を説いたのが注目される。とくに《心の文》のなかで〈和漢のさかいを紛らかすこと肝要〉と述べ,これまでの唐物一辺倒に対して,備前物,信楽物などの国物(国焼)のもつ素朴な美しさに関心を寄せている。…
※「村田珠光」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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