古志村(読み)くしむら

日本歴史地名大系 「古志村」の解説

古志村
くしむら

[現在地名]瀬戸内古志こし

篠川しによほ村の北西に位置し、集落は瀬戸内の深い入江に臨む。北に南郷なんごう山がある。コウシともいう。万暦二年(一五七四)五月二八日の琉球辞令書(古志文書)に「こし」とみえる。この辞令書は前欠・後欠があって完全ではないが、須子茂文書の例などから、当地のオエカ(地方官人)ノロである「さかい」に給された田地に不足があったため、それを補填する地があげられ、その免除分と琉球国王への年貢分を指示したものであろう。つまり、すでに「まひつ」という者の田から五六「つか」分が補填されていたらしいが、新たに不足分八三つかが出たために、この年「こし」の者「たらもい」の田地である「こいちはる」の五六つか四「たはり」(九九まし)、同じく「ふミしはる」の八つか四たはり(一六まし)、および「くたとん」の者「かねし」の田地である「おはまはる」の一八つか(二〇まし)を充てることとしている。


古志村
こしむら

[現在地名]松江市古志町

佐陀さだ川の左岸に位置し、南は同川が流れ込む潟之内かたのうちを境に浜佐陀はまさだ村、北は佐陀宮内さだみやうち(現鹿島町)。丘陵地の端に村落が密集する。越の国(のちの越前国・越中国・越後国)からの移住者が開いた土地と伝え、古須・許志とも記された。正保国絵図に村名がみえる。明暦四年(一六五八)の古志村検地帳には当村分と西谷にしたに分が記され、当村は田方三二町九反余(分米四七一石余)・畑方五町八反余(分米三六石余)、西谷分は田方二四町九反余(分米三二一石余)・畑方三町八反余(分米二〇石余)、屋敷数四五の内訳は御役目屋敷三五(うち西谷分一三)・引方一〇(うち御蔵二)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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