西谷村(読み)にしだにむら

日本歴史地名大系 「西谷村」の解説

西谷村
にしだにむら

[現在地名]北川村西谷・長山ながやま木積こつもそううえ

北方山地から南流する二川が合して西谷川として奈半利なはり川に流入する一帯を村域とする。奈半利川の合流点に長山、その上流にたあうえ三子生みこがうえ・西谷、支流域に木積・宗ノ上がある。浜宇津系譜(浜渦家文書)は「西谷モ昔シハ一名ナリシヲ、イツノ頃ヨリカ東谷・西谷・長山ト分チ、又ノチニ東谷ヲ宗ノ上・木積ト分テ、今四箇村トナリニキ」と記す。北川村の枝村。

天正一五年(一五八七)の北川之村地検帳には「是ヨリ東谷村」として東小川村六二筆三町三一代、うち切畑七反一七代、太コツモノ村五七筆三町一反四四代、うち切畑六反二一代、能木村二三筆四反二代五歩、うち切畑二反一六代五歩、「是ヨリ永山之村」として二八筆二町八反一一代一歩、うち切畑一五代、「自是西小川」として四町一反三七代三歩、うち切畑三反一一代とある。


西谷村
にしだにむら

[現在地名]本耶馬渓町西谷

山国やまくに川の支流跡田あとだ川の上流、西谷川沿いの散村。東は東谷村、西は鼻操はなぐり峠を越えて山移やまうつり(現耶馬渓町)、北は落合おちあい村。古くは西谷・東谷の地を合せて上津野かづのとよんだと思われ、小倉藩元和人畜改帳では当村は西上津野村と記される。正安元年(一二九九)八月二日の鎮西下知状(到津文書)に「上津野弥三郎康清」があり、庄入道善阿の相親という理由で、「柑子木田畠」を譲り受けている。建武三年(一三三六)一一月日の野仲道棟軍忠状(野中文書)にみえる跡田弥三郎と同一人であろうか。


西谷村
にしだにむら

[現在地名]柳谷村西谷

現柳谷村の西部を占める山間地の村で、くろ川に流入する多くの谷に沿って集落が点在する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の浮穴郡の項に「高弐百五拾九石弐斗八升 西谷村 林山有、野山有」とある。寛保元年(一七四一)頃の「久万山手鑑」によれば、田畑三一町二反七畝のうち水田わずかに三反、九九パーセントは畑である。小物成は薪・茶銀・真綿・焔硝・漆・麻苧など。庄屋給米一一俵。家数二一九軒のうち百姓かど(本百姓)一六三軒、無縁・家来(水呑・被官)五六軒となっている。

村内には大除おおよけ(現久万町)の枝城しろもり(城主中川主膳)天神森てんじんがもり(城主山下重兵衛)があり、山下重兵衛は天正二年(一五七四)ささとうげの合戦で戦死し、中川主膳は大除開城後、大味川おおみかわ草原くさはら(現面河村)に移り住んだという(熊大代家城主大野家由来)


西谷村
にしだにむら

[現在地名]船岡町西谷

見槻中みづきなか村の南、見槻川の支流、西谷川流域に位置する。東は見槻村。見槻西谷村とも称した(因幡志)。見槻村の枝郷であるが、元禄郷帳・元禄国絵図作成時に高分され、独立村として登載された(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)。元禄郷帳によれば高二五二石余。正徳元年(一七一一)郷村高辻帳では高一五八石余(拝領高相当分)。本免は五ツ。藪役銀八一匁四分を課されており(藩史)、倉吉荒尾氏の給地があった(給人所付帳)


西谷村
さいだにむら

[現在地名]下市町大字才谷さいたに

立石たていし村の東方に位置する。中世文書(楠山家文書)には「サヤタニ」の地名が散見する。文禄五年(一五九六)九月の竹役催課状(同文書)には「クロタキカウノ内サヰタニ」と記す。元禄郷帳には「サイダニ」と訓じている。黒滝くろたき郷のうち。慶長郷帳では村高一二二・七五三石、幕府領(代官大久保長安)。のち延宝検地により村高は二五三・六〇七石となった。


西谷村
にしだにむら

[現在地名]広瀬町西谷

西比田にしひだ村の北、飯梨いいなし(西比田川)に西方から流入する支流の谷に位置する山村。永禄年間(一五五八―七〇)と推定される八月五日の尼子義久感状(吉川家中并寺社文書)に「西谷固屋」がみえ、森脇孫三郎の部下が同所で敵を打破ったことが賞されている。正保国絵図には「西比田村内西谷」と記された村形が描かれている。「雲陽大数録」の能義郡広瀬藩領村々書上や天保郷帳には村名がなく、高は西比田村に含まれていた。


西谷村
にしたにむら

[現在地名]金山町西谷

川口かわぐち村の南西一八町にあり、只見ただみ川南岸に位置し、村中を伊北いほう街道が通り渡船場が設けられていた。徒歩で越川こすがわ村に至る経路が本街道であるが、俗にあしねたと称される地滑り地帯で、人馬の通行を妨げた。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「面谷 百拾五石四斗八升 御倉入」とあるが、面谷は西谷の誤写であろう。文化一五年(一八一八)の南山御蔵入領組村高帳に一六七石余とある。化政期の家数は本村四四・端村白沢しらさわ(新編会津風土記)。天保一三年(一八四二)の大石組人別家数増減書上帳(中丸家文書)では家数五一(うち一六小屋住居)、人数二二九(男一二七・女一〇二)、男牛一〇とある。


西谷村
にしたにむら

[現在地名]武生市西谷町

日野山北西麓の谷中にあり、北方の谷口には枝村福永ふくなががある。中世には西谷庄の地で、慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では今南西いまなんせい郡の「西谷庄」(高二四〇九・八八六石)に含まれる。正保郷帳によると田方三九一石余・畠方三四石余。貞享三年(一六八六)福井藩領より幕府領となり、元禄五年(一六九二)から一時期土岐頼殷領であった。元文三年(一七三八)の今立郡新村組人家御改村惣寄帳(「越前宗門帳」所収)では、家数二七(うち高持一五・雑家九・寺一)・人数一〇五。また文化元年(一八〇四)六月の西谷村明細書上帳(西谷町共有文書)によれば、田方一六町三段五一二歩・畑方三町三段五畝。


西谷村
にしだにむら

[現在地名]佐伯町小坂こざか

現佐伯町の西端、王子おうじ川上流域南方にあり、北は加賀知田かがちだ村、東は東谷村。慶長一〇年(一六〇五)の備前国高物成帳(備陽記)佐井木さいき庄西谷村とある。寛永備前国絵図に村名がみえ、高二一四石余。「備陽記」では田畠一三町二反余、家数三〇・人数一七六、岡山城下京橋きようばしまで道程六里一〇町、池九。天保年間の「磐梨郡三組手鑑」によれば、直高二七八石余、家老土倉四郎兵衛の給地。田高一四五石余・九町五反余・物成八三石余、畑高五二石余・三町九反余・物成二六石余、開田畑一町三反余・新開畑一畝余、家数三七、うち本村一三・大杉おおすぎ六・名倉なくら五・奥谷おくだに一〇(数値が合わないが史料のまま)、すべて寺山てらやま村の本久ほんきゆう寺檀家、人数一三六、牛二四、猟師鉄砲三、石橋一、池九、加賀知田宮林五畝・百姓自林四町余・入会野山八町余、大工一・桶屋一。


西谷村
にしだにむら

[現在地名]葉山村西谷・かわうち

かばかわ村の西にあり、新荘しんじよう川対岸の山間にある川ノ内集落を西谷川ノ内ともいうので、川ノ内は当村の飛地であったと考えられる。江戸時代の郷帳類には村名はみえず、おそらく三間みまかわ村のうちに含まれていたと推察される。天正一六年(一五八八)の津野半山地検帳に西谷・川内かわのうち谷がみえ、西谷は地積四町七反余、ヤシキ五筆ですべて牧千満丸の給地、川内谷は地積二町一反余、ヤシキ八筆で、すべて津野氏直轄地で川内名本の扣となっている。


西谷村
にしたにむら

[現在地名]吉野町大字西谷

竜門りゆうもん岳西南麓、平尾ひらお村からほそ(現鹿路トンネル)への通路にあたる渓谷の村。竜門りゆうもん郷のうち。慶長郷帳の村高三二一・六九石。江戸時代を通じて旗本中坊(左近)氏領。

享保八年(一七二三)の吉野郡御領分拾五ケ村之内西谷村明細帳(西谷区有文書)では、高札は切支丹札一枚、郷蔵は一軒、小物成は松竹(茸)山年貢、山年貢、入木銭、炭竈役、竹年貢、荒藪年貢のほか、草山年貢、鍛冶炭役、鍬平役、炭役、茶役、栢年貢などがある。用水関一五ヵ所、用水溝一五ヵ所が記され、家数八三(うち本百姓六八、無役一〇、寺一、庵四)、人口三三二(男一七九、女一四七、出家四、尼二)とある。


西谷村
にしたにむら

[現在地名]行橋市西谷

大谷おおたに村の西にあり、うまヶ岳の北西麓、井尻いじり川上流に立地する。南部は山地。西は津積つつみ村。元和八年人畜改帳に西谷村とみえ、高六四〇石余、家数五七・人数一一二(うち百姓三四)、牛一八・馬六。正保国絵図では高四五〇石余。郷村高帳では高五二一石余、うち新田高一五石余。旧高旧領取調帳では高三九二石余。大祖たいそ神社はもと妙見社と称し、馬ヶ岳山上にあって、うまたけ(現犀川町)城主長野氏から産土神として崇敬された。


西谷村
にしだにむら

[現在地名]津和野町邑輝むらき

横瀬よこせ村の北西、津和野川上流域右岸、同川支流西谷川流域の山間村。殿河内とのかわちじよう廻りまわりなどの地名がある。明治四年(一八七一)の万手鑑によれば古高一二六石余、寛永一四年(一六三七)の検地高二四七石余、明治四年の総高二六三石余・反別一三町五反余、家数二七(うち本百姓二六)・人数一二二(うち本百姓一一九)、牛二四、米蔵一、紙漉舟二〇、鉄砲五。


西谷村
にしだにむら

[現在地名]名田庄村西谷

なか村の西部北方、井上いがみ村東方のみなみ川左岸に位置し、村域のほとんどは山林原野。中世は名田庄上庄の井上村に含まれていたとされるが史料的には確認できない。戦国時代には武田信栄の家臣土屋六郎左衛門が当地に居城、この地一帯を支配したと伝える。

正保郷帳によれば田方六六石余・畠方六石余。寛文年間(一六六一―七三)井上村との間で立会山相論が起こったが、両村立会いの慣行どおりに裁決された(下西家文書)


西谷村
にしだにむら

[現在地名]北条市西谷

粟井あわい川の中流にある山村。きやく大西谷おおにしだに磯河内いそこうち本谷ほんだにの村々に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)風早かざはや郡の項に「西谷村 林少有、柴山有」とみえ、村高は二一二石二斗五升二合、うち田方一五一石五斗一升三合、畑方六〇石七斗三升九合とある。天保郷帳では二一五石八斗二合とやや増加。


西谷村
にしやむら

[現在地名]大宮市日進町につしんちよう

上加かみか村の北に位置し、村の主要部は大宮台地の日進支台上にあり、東はさかさ川、西はかも川を限る。村のほぼ三分の一を占める水田は鴨川沿いに広がる。上加村内に飛地があった(風土記稿)。田園簿によれば田六七石余・畑一〇四石余、旗本柴田領。寛文元年(一六六一)検地があり、同年の大谷郷西谷村検地帳(高橋家文書)によると反別は田六町五反余・畑一七町九反余、名請人は二三人、うち二二人が五反以上の土地を有し、屋敷を登録されたものは約八割いた。


西谷村
にしたにむら

[現在地名]山南町西谷

氷上郡の最西端に位置し、南は小畑おばたけ村、西方の大見おおみ坂を越えると播磨国多可たか箸荷はせがい(現加美町)に通じる。正保郷帳に西吉村とみえ田高四六石余・畠高二二石余、柴山・林あり、水損少しあり。柏原藩領。領主の変遷は片山かたやま村に同じ。鶴牧藩大概帳では高一二五石余で家数六八・人数三一九。


西谷村
にしだにむら

[現在地名]但東町西谷

河本こうもと村の南、河本川の支流西谷川流域の山間に位置し、集落の南西方には西谷川に掛かる清竜せいりゆうの滝がある。郷村帳類では東隣の天谷あまだに村のうちに含まれて高付される場合もあった(天保郷帳など)。近世の領主の変遷は水石みずし村に同じ。出石封内明細帳によると免状表高一〇七石余、この内訳は屋敷一石余・麻畑一石余・田方八四石余・畑方二〇石余、ほかに古新発高一斗余。小物成として茶代米六斗・山手米二斗余、刈畑役の蕎麦二斗余・稗六斗余・小豆二斗余・粟四斗余、桑代の真綿一貫七三六匁などを納め、家数五〇・人数二〇七。


西谷村
にしたにむら

[現在地名]松江市西谷町

古志こし村の西に位置し、北は佐陀宮内さだみやうち(現鹿島町)。明暦四年(一六五八)の古志村検地帳のうちに西谷分が記され、田方二四町九反余(分米三二一石余)・畑方三町八反余(分米二〇石余)、御役目屋敷一三。元禄八年(一六九五)の西谷村検地帳(古志村誌)では高四一七石、屋敷数は御役目屋敷一三・御役御免屋敷九(うち蔵屋敷一)


西谷村
にしたにむら

[現在地名]加西市西谷町

たに村の北西に位置する。播但中央山地の南部、高峰たかみね山・小谷こだに城山連山の南西麓に立地し、ほぼ東西に走る山崎やまさき断層の低地帯に面する。文禄四年(一五九五)八月一七日の豊臣秀吉知行方目録(木下家文書)に西谷村とみえ、木下家定は豊臣秀吉から同村の六石などを宛行われている。慶長国絵図に西谷とみえる。領主の変遷は市場いちば村と同じ。


西谷村
にしたにむら

[現在地名]福崎町西治さいじ

西治村の西に位置し、山崎やまさき断層が東西に走る細長い谷に立地する。神西じんさい郡に属する。江戸時代初期は西治村に含まれた。貞享元年(一六八四)の本多忠国領知目録(本多家文書)に村名がみえる。元禄郷帳には「古ハ西治村」と注記され、高三六六石余。天保郷帳では高三八三石余。


西谷村
にしたにむら

[現在地名]三国町西谷

三国湊の東方、加越台地上にあり、西北のだけ村と近接する。「河口庄綿両目等事」(大乗院文書)中の永仁五年(一二九七)二月の坪江下つぼえしも郷の検注記録に西谷名があり、室町中期以前の記録である「坪江下郷三国湊年貢夫役等事」(同文書)にも西谷名があり、蓮道名の二町一反を加え、本田七町六反大、算失出田四反小、新田一〇町三反三〇〇歩が記されている。同記録によれば西谷名のなかには「明友」ほか五つの在家名があり、番頭がいた。当村名はこの西谷名に起源をもつ。


西谷村
にしたにむら

[現在地名]篠山市西谷・河内台こうちだい

坂本さかもと村の北に位置する。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に「西谷村」とみえ、高二七二石余。正保郷帳では田高二〇九石余・畠高二五石。元禄郷帳では高二七五石余。天明三年(一七八三)の篠山領内高並家数人数里数記では高屋組のうちで、高二二二石余、家数三四・人数一六五。寛政年間(一七八九―一八〇一)の丹波国絵図(柏原町歴史民俗資料館蔵)では「北谷」と記される。「多紀郡明細記」では木ノ部組のうちとして田一九八石余・畑二七石余、ほかに荒引四六石余があった。


西谷村
にしだにむら

[現在地名]越路町西谷

東谷村の西。はら寺尾てらお居平えだいらの三集落からなる。渋海しぶみ川の旧河川敷には枝村の西谷新田がある。正保国絵図に高一一六石余とみえる。天和三年(一六八三)の越後中将御領覚では高一一〇石八斗余のうち山高三斗余。近世初めは高田藩領、天和元年幕府領。


西谷村
にしやむら

[現在地名]川島町西谷

曲師まげし村の北にあり、集落は出丸本いでまるほん村・出丸下いでまるしも郷の西に続く自然堤防上に発達する。近世には出丸七ヵ村のうち。古くは曲師村のうちであったと思われる。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳に村名がみえ、高一六四石余、反別は田一〇町九反余・畑一四町七反余。ほかに開発地高二五石余(田一町六反余・畑二町二反余)があった。


西谷村
にしだにむら

[現在地名]中辺路町西谷

東は真砂まなご村、西と北は大森おおもり山とまき山を結ぶ尾根をもって限る。集落は富田とんだ川の支流西谷川に沿う山麓の傾斜面に散在。村の北、槙山の山中潮見しおみ峠を熊野街道中辺路が東西に通じる。「続風土記」に「真砂村の西にあるより西谷と云ふ」と記される。


西谷村
にしたにむら

[現在地名]丹後町吉永よしなが 西谷

吉永村の南、吉永川の左岸に位置する。

初め吉永村の内で、延宝三年郷村帳に「吉永村西谷」高五七・五二五石と記される。天和元年宮津領村高帳で初めて「西谷村」高七七・〇一八石とみえる。宮津藩領であったが、寛文六年(一六六六)幕府領(吉永村として)、同九年宮津藩領、延宝八年(一六八〇)幕府領、翌年宮津藩領、享保二年(一七一七)幕府領と変遷。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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